武田信玄と三条夫人の長女、黄梅院といえば、甲相間の同盟に、大きな役割を果たした事で知られています。

その彼女が武田家で受けた教育ですが、母親の三条夫人が公家の姫であるため、公家風の礼儀作法も教えられた可能性はありますが、基本的な、嫁ぎ先での立ち居振る舞い・行動などは三条夫人から武家の娘としての教育を、受けたのではないか?と思われます。そして特に黄梅院から、どこかやはり三条家からの家風を感じさせる所言え ば、永禄十一年に、祖母大井夫人の追慕像への画讃している大泉寺の安之玄穏を導師に、出家している所でしょうか。

 

もちろん、この離縁された後の黄梅院の出家は、後の武田義信の正室の嶺松院の出家などにも見られるように、政略結婚が破綻した場合の当時の戦国女性達の典型的な行動の一つであり、失意による理由も大きいとは思われますが。

しかし、やはりこの黄梅院の甲府に帰された後の出家という行動の中には、小田原の夫や子の事を思い、鬱々とする辛い境遇の中で、日頃から母三条夫人も信仰している御仏にすがりたいという気持ちも、どこかにあったのではないでしょうか?