諏訪御料人

武田信玄を巡る女性達の中では、最も有名かつ注目を集めている女性だと思われる。 これまでさんざん、すでにその悲劇については、語り尽くされてきた感がある。 父親は信濃国諏訪郡の豪族諏訪頼重。

母親は、側室の小見氏(麻績)。

長野県の東筑摩郡に、「麻績」という地名があり、諏訪御料人の母は、ここの豪族の娘として諏訪頼重に嫁いできたのだろう。

しかし、諏訪御料人は既に生年からして不明である。また本名も不明。

武田氏と諏訪氏の同盟が破れ、天文十一年に諏訪頼重が甲府で切腹後、 信玄の側室になったと思われる。当時推定十二・三歳。

だが「甲陽軍鑑」では、諏訪御料人のこの時の年齢は、十四歳とされている。そして、彼女の信玄への正確な輿入れの年月日は、判明していない。

更にその輿入れの詳しい経緯も、不明である。

上原城から、甲府に連行されてきたとか、もしくは「二木家記」によると、天文九年に信玄の妹禰々が頼重に嫁いだ後、交換の形で甲府に人質として送られていたという。

 

 とにかく、諏訪総領家滅亡後は、一旦親戚筋の禰津元直の許に預けられ、小県から改めて甲府に輿入れしてきたものと推定される。

嫁いだ年に関しては、小和田哲男氏は勝頼が生まれる一年前ではないかと推定しており、そうかもしれない。

なお諏訪頼重の滅亡は、信玄の策略にかかっての面もあるが、諏訪氏の内紛に付け込まれた面もある。

従来諏訪氏は、軍事を司る諏訪総領家と、神事を司る大祝家、という複雑な支配体制になっており、やがて歴史の中で両家の間に、紛争が起きるようになっていく。 また、諏訪上社は諏訪氏が、諏訪下社は金刺氏が管理していた。 武田信玄の時代に、一族の内紛に乗じられた面も、大きいようである。 実際に、高遠の諏訪頼継などのように、諏訪氏から武田氏に内通し、信玄の諏訪攻めに共に加わっている者達も出現していた。

諏訪御料人は、天文十五年に四郎(勝頼)を生む。

信玄は、勝頼には武田氏の通字である「信」という字を名前に与えておらず、諏訪氏の通字である「頼」という字を与えており、将来的に勝頼が諏訪氏を継ぐ事を想定してだと考えられる。

そして勝頼誕生後の諏訪御料人の消息は、一切不明である。

弘治元年十一月六日に死去。

「法号 乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼」。

墓所は高遠町の建福寺。

 

 元亀二年、信玄の後継者として高遠から甲府に呼ばれた勝頼は、「鉄山法語集」によると、この年の十一月一日に、建福寺で駿河の臨済寺の鉄山宗鈍を招いて、霊延を設けて比丘尼達を集め、法華経の一部を写経させ、母の諏訪御料人の十七回忌を盛大に執り行っている。

また既に勝頼が武田家当主となった後の天正七年の十一月六日には、今度は甲府の長禅寺で、高山玄寿住職の下、更に高遠からは東谷宗杲を招いて、諏訪御料人の二十五回忌を執り行っている。

なお諏訪湖湖畔の小坂観音院にある供養塔は、実際の彼女の物ではない。井上靖の小説「風林火山」を記念して、昭和に建てられた物のようです。どうも昔に井上靖が「風林火山」を発表した頃には、諏訪御料人の諏訪湖での入水自殺が、史実の可能性が高いなどと思われていたらしく。

どうやらこの供養塔も、その産物のようです。

例えば有名な歴史作家の山本藤枝とかも、昔の歴史雑誌で平気で「湖に消えた美女」とかいう題名の記事を書いていたりするようですし。

そしておそらくその後の新田次郎の「武田信玄」の発表後は、今度は諏訪御料人は結核で病死の可能性が高いとかいう事に、なっていったのでしょうね。しかし、既に息子の勝頼が生まれてから十年は経っているのに、何で信玄を激しく憎むあまりに、突然諏訪湖で入水自殺した可能性が高いと思ってしまうのか?信玄の妻達の中で、彼女だけは甲府に墓所がないからといって。有名歴史作家の井上靖の書く事なら、そんなに何かリアリティを感じさせてしまう所があるのでしょうかね?

 

 

また長野の方には、他にも諏訪御料人に関しては、こういう史実性のない、いわゆるこじつけ・捏造史跡があるんですよね。

この諏訪湖の供養塔の他にも、ガイドブックなどで、諏訪市高島の高島城は、信玄と彼女が一緒に過ごした城なんていう事になっていますが。

しかし、この場合も、そういう歴史的事実はなし。それにどう見ても、この高島城の様式自体も、江戸時代風ですし。

また実際にも、この高島城は江戸時代に、日根野高吉により築城。

そして確かに彼も諏訪地方の武将ではあったようですが、豊臣秀吉の小田原攻めの戦功により、諏訪一帯の統治を任されています。

更に一六〇一年に、この場所に移封された諏訪氏も分家の方で、諏訪頼重の諏訪総領家の方の血統ではないですし。

このように、実際にはこの高島城も、諏訪御料人とは直接的な関係のない場所です。どうせ、大方、これも初めは井上靖の小説辺りで、適当にそういう事にされて書かれて、いつの間にか、これもいつしかそれが史実にまで、すり替わっていったというパターンなのでは?という気がします。

 それにおそらく、地元でも観光客集めが主な目的でこう宣伝しているんだろうから、史実性のある史跡かなんて、どうでもいいんでしょうが。

 

 

そしてこの諏訪御料人と言えば、武田信玄最愛の妻であるというのが通説だが。しかし私は既に述べた通り、従来の三条夫人悪妻説、また彼女が一切正室として具体的な役割を果たしていなかったとする見方には、大いに疑問を感じている立場である。そして更に、当主の生母という事から、理想化されて描かれやすいが、主に諏訪御料人の人物像を形成しているのは、小説やドラマやほとんど作家達による、小説と言ってもいいような評伝からばかりである、極めて危ういものだと言える。

あまり、まともに論ずるには値しないものに思われる。

諏訪御料人というのは、実証的考察に基づいて具体的な人物像を推測するのは、極めて困難な女性である。

そしてかなり理想化されていると思われるその人物像も、義信、勝頼、それぞれの息子達の辿った運命から、そのまま各自の人物像までが結び付けられ、そこから連想された 悪女の三条夫人、賢女の諏訪御料人という、単純な二分化に基づいた、定型的な人物造形に過ぎない。

また、それまでは実在しない女性ではないのか?とまで言われていた諏訪御料人を一躍有名にした、井上靖の「風林火山」の中の由布姫は、驕慢な美女など、同作者の「淀どの日記」中の、淀殿の人物像との類似点が見られ、実はそれ程この由布姫の人物像には、独自性がない事がわかる。 違いと言えば、由布姫はなぜか「あり余る才能に恵まれ」という人物設定になっている所ぐらいか。

この井上靖は、両者を重ねて見ていたのではないだろうか?

 

いずれも、落城の憂目に合った敗者の姫であり、また側室ながら当主の母親親となっている所から、勝気で聡明でしたたかな美女というイメージを、連想したのかもしれない。

しかし、淀殿に関して言えば、福田千鶴氏の「ミネルヴァ日本評伝選 淀殿」などの、近年の研究の進展により、こうした人物像も改められてきているようである。 ましてや、淀殿以上に圧倒的に史料が乏しく、主にフィクションにより形成されている、危うく曖昧な人物像しか与えられていない諏訪御料人の方も、当然人物像の見直しが行なわれるべきではないだろうか?こうして考えていくと、小説やドラマなどでまことしやかに描かれる、三条夫人や諏訪御料人の人物像は、詰まる所、作家達が彼女達と境遇が似ていると見なした、築山殿や淀殿らの女性達から連想したイメージに過ぎず、あてにならないものである事がわかる。

やはり、従来の彼女達の人物像の見直しが必要だと思われる。

そしていつしか、こういった小説の人物像が、史実とすり替わってしまっているのだ。例えば、彼女達の小説中の人物像が、本当に事実であるかのように思われてきたのもそうだが、他にも諏訪御料人というと、軍師の山本勘助と、大変に親しい間柄であり、まるで勘助が彼女の後見役であるかのような扱いとして、常に共に歴史小説などで描かれている事が多い。

しかし、別にこれも、何ら史実的・文献的に裏付けがあるものではなく、井上靖が「甲陽軍鑑」で勘助が信玄に、諏訪御料人を側室にする事を勧めたという一箇所の記述から、想像を膨らませた創作だろう。

そしてそれを後の歴史作家達が、一斉に踏襲するようになっただけである。

 

武田氏研究者達は、三条夫人や諏訪御料人などの武田家の女性達に関しては、本格的な研究を試みる事を、逃げているようなフシが見られるが。

しかし、三条夫人に関して言えば、ほとんど史料がない諏訪御料人などとは違い、各関連物などもあり、それ程本格的な研究が不可能とは思われないし、(現に既に先鞭を付け、立派な成果を残しておられる上野晴朗氏の著作もある。)そのような姿勢では、彼女達に関してはほぼ小説やドラマなどでの人物像を認めていると見なされても、しかたないように思う。

彼らは、武田家の女性達に関しては、小説と史実の境目どころか、ほとんど小説が事実と化してしまっている問題を、一体どのように捉えているのだろうか?いまだに由布姫や湖衣姫を、諏訪御料人の本名だと思っている人々がいるという事なども含め。この問題は、武田信玄の方にも多く見られるが。 それ程武田氏でも、女性達の方には重きを置いていないから、作家に任せきりでも、構わないと思っているのだろうか?

また、研究するまでもなく、おそらく諏訪御料人が信玄にとって最愛の妻であり、三条夫人は悪妻で愛されなかった形式的な正室に過ぎないであろうからという判断に基づいての事なのか?

どうも、諏訪御料人は側室ではあるが、武田信玄最愛の妻、そして三条夫人は悪妻で愛されなかった形式的な正室に過ぎないであろうからという判断に基づいての事なのか?

どうも、諏訪御料人は側室ではあるが、武田信玄最愛の妻、そして三条夫人は悪妻で愛されなかった正室などが、彼らの間でも暗黙の了解のようになっているように感じられる。また、実際にもそういった気配を感じる。

私がこれまで見てきた中で明確に、諏訪御料人に関して、「小説の中で重要な位置を占めている」という趣旨の事を書いているのは、上野晴朗氏と笹本正治氏くらいである。

結局、現在三条夫人と諏訪御料人の人物像の解釈に関しては、ほぼ息子の家督相続の成否のみで判断を下されていると言ってよく、曖昧な点を多々残した、一面的な解釈のままになってしまっている。

 

 

そしてこの問題に関しては、上野晴朗氏も「信玄の妻」の中の、あとがきなどで、三条夫人に関しても、史料の少ない中から、何とか総合的に判断し、推論を展開している面が多い、武田氏研究の問題として、一等史料から見た事実の確認ばかりが行なわれており、なかなか総合的な歴史観の組み立てという発想・動きが生まれてこない。

そしてそのため、三条夫人の本格的な研究もなかなか行なわれる様子がなく、その隙を縫って、フィクションばかりの小説が一方的に流行っている、というような趣旨の、上野晴朗氏が三条夫人の研究に入る前後に感じた、苦衷を漏らされている記述が見られる。

確かに、こういった問題点がいまだに解決されていない感じがする。

三条夫人に関しては、一向に従来の見方が改められない事も大きく関係し、この数年間、もはやその存在に関心すら持たれなくなってきた感があり、その存在が埋没していく一方らしいという危機感から、今回の私の著書執筆及びホームページの制作に至る。

たまに三条夫人が、信玄の正室という立場から、何かで取り上げられる場合にも、有名な春日源助への信玄の釈明の手紙を取り上げ、悪質な三条夫人の嫉妬話の捏造をしていた某歴史ゴシップテレビ番組などのように、せいぜい、ヒステリックで嫉妬深い悪妻という、ゴシップ的な関心しか持たれない存在となってしまった。

 

 

このように、私がやらなければ、今後誰も真剣に三条夫人と諏訪御料人に関する真実の追求を、行なわないであろうという危機感が、著書執筆の大きな動機となっている。

私が諏訪御料人が信玄の最愛の妻という解釈に、疑問を感じる主原因の一つとして、やはり、十年間は信玄の側室として存命していたと思われる諏訪御料人が、この間に十代後半から二十代前半という年齢であったにも関わらず、一人しか信玄の子供を生んでいない事である。

この件に関しては、これまで長い間、ほとんど不問にされてきたようだが。

やはり、彼女が最愛の妻にしては、やや不思議なように感じられる。

また、名高い彼女の、「絶世の美女」というのに関しても、これも既に述べたが、「徳川幕府家譜」の中で、浅井三姉妹に関して使われている「隠れなき美女」という表現と同様、当時の著名な女性達や当主の生母に対する、紋切り型の形容詞、賛辞だった可能性も出てきたのである。

大体、この諏訪御料人に関して、ロクに記録が残っていないという事自体が、彼女が実際には当時信玄の側室の一人としてしか、扱われていなかった事を表しているのではないかという気がします。

また、これも従来の見方に疑問を感じる根拠としては、諏訪御料人の死のわずか数日後に、長女の黄梅院の出産を、信玄が大喜びしているということです。 この様子からも、とても小説やドラマなどで描かれるように、彼が諏訪御料人の死を大変に嘆き悲しんでいる気配は、窺えないのですが。 また、何よりも不思議なのは、なぜか彼女の墓所は夫の信玄や他の妻達のように、甲府内ではなく、一人だけ離れた高遠にあるという事です。

まさか、これもよくフィクションで描かれているように、信玄が妻達の中で諏訪御料人を一人だけ別格扱いして諏訪の方に住まわせて、わざわざ甲府の方から通っていたとも考えずらいですし。

 

 

普通に考えて、諏訪御料人は、実際には当時甲府で死去した可能性の方が高いと思います。

こうした、諏訪御料人死去の数日後の、黄梅院の出産時の信玄の反応、諏訪御料人の墓所が一人だけ長野の高遠の方にある事など、これらいくつかの気になる痕跡から考えてみて、彼女が父諏訪頼重が信玄に謀られ滅亡させられた事から、どうしても信玄を愛せず、やはり、そういった事から、彼ら二人はとうとうしっくりいかないままだったからなのでと思えます。とはいえ、諏訪御料人の死の数ヶ月前の、何となく彼女の体調不良が見られ始めた頃くらいから?

彼女が信玄に頼んで、故郷の諏訪の方で療養させてもらうことにし、そのままそちらの方で死去したというような可能性もあり、彼女の墓所が高遠にある理由については難しい所もありますが。

しかし、やはり、諏訪御料人が信玄の側室になった最初からもしくは早い時期から、彼女だけ、諏訪の方に独立した住居を与えられていたとは、考えずらいように思います。信玄の妻になった以上、彼女も他の妻達と同じく、甲府の武田館に住む方が自然だと思いますし。

このように、信玄の妻達の中ではなぜ諏訪御料人だけが、長野の高遠に墓所があるのかという事については謎が多く、考察の余地はまだあるとは思いますが。いずれにしても、少なくとも諏訪御料人が死去する数ヶ月前までは、このように、彼女が諏訪の方に住んでいた可能性もあるし、また何よりも彼女の埋葬地が諏訪の方に近い地である事などからも、諏訪御料人が信玄の側室になって甲府に住むようになってからも、何かと彼女の生誕した諏訪地方との方の、関わりの強さを感じます。

 

 

やはり諏訪御料人が一番心安らぐ所は、こちらだったという事なのではないでしょうか?彼女の心は、いつも故郷の諏訪の方にあったのではないかな?という気がします。 それに、彼女の墓所の建福寺も、三条夫人の円光院と比べると、それ程特別に保護されているような感じもしませんし。

やはり、これらの事の理由としては、こういった元々の諏訪御料人の輿入れの経緯も関係し、彼らは政略で主に結ばれていた夫婦だからという事だったのではないか?という気がするのですが。

しかし、このように甲府からは、全く彼女の存在していた気配が伝わってこない事から、私自身は、このように懐疑的ではありますが、だからこそ、最初から諏訪御料人が向こうに独立した住居を与えられていたかのように、小説などの中でしばしば想像される事があるのかもしれませんが。

それにもし、諏訪御料人に、勝頼の弟妹がたくさん生まれていたら、必然的に諏訪氏の勢力が強まる事となり、それはそれで武田家内の微妙なパワーバランスを崩しかねない、信玄にとっては、なかなか困った事態に発展していた可能性もある訳で。

そういえば、諏訪御料人が一番の愛妾と盛んに巷で言われるにしては、彼女に一人しか子がいないのも、もしかしたら、諏訪氏の勢力を、あまり強くさせ過ぎないようにするという、彼一流の深謀遠慮でもあったのかもしれないですね。

そういえば、やはり同じく武田家の征服地の禰津地方出身であり、これも諏訪氏とは親戚筋である、禰津夫人との間にも、彼は一人しか子供を儲けていない。信玄は征服地である信濃地方出身の、側室達には、完全には、気を許しきれない所があったのではないでしょうか?

実際に、北信一帯はなかなか不安定な時期があり、永禄四年には、武田家先方衆となり、従属していたはずの仁科・海野・高坂らの諸豪族が、上杉謙信に呼応する動きを見せています。

 

 

このため、信玄は武田信親や盛信らの息子達をそれぞれ、海野や仁科氏の養子に据え、こうして息子達をこちらに送り込む事で、直接武田家の統治下に置き、治安の安定を図っています。

結局、総合的に判断した結果、私の諏訪御料人に関する結論としては、諏訪御料人が小説やドラマや作家による評伝などを中心にして、これまでやたらと理想化され、信玄最愛の妻として強調されるのは、詰まる所、彼女が息子の勝頼が武田家を継ぐ数十年前に死去し、事実上の当主の生母にまでならなくても、後に息子の勝頼が武田家当主になり。

そしてその結果、諏訪御料人が当主の生母という事になったからだと思います。つまり、彼女本人が正室の三条夫人より聡明で優れた女性で信玄に愛されていたからというより、いわゆる「子の七光り」的な部分が大きいのではないかと思われます。

これに対して三条夫人の場合は、「子の七翳り」というような感じでしょうか。 それは、当主の生母が理想化されやすい傾向は、ある程度しかたのない面もあるかもしれませんが、それにしても、私の長年の調査・研究の結当主武田勝頼の生母として、ほとんど史実が不明な諏訪御料人が理想化されていく歴史と共に、甲府に信玄の正室としての役割を果たしていた数々の痕跡を残しているにも関わらず、三条夫人がこれまで長い間、真面目に再考される事もなく、無責任に貶められ続け、あまりにも理不尽な扱いをされ続けてきたよう な印象を強く受けました。

 

改めて、諏訪御料人ばかりがこうして重視され続け、正室の三条夫人は軽視され続ける現状に、異議を申し立てたいと思います。

要するに、正室三条夫人の息子であり、その血統などからも、次期武田家当主と目されていた義信が謀反を起こして失脚し、側室諏訪御料人の息子で四男であった勝頼の武田家相続という、家督相続の番狂わせが生じた事により、長年の歴史の中で、三条夫人と諏訪御料人の本来の存在・評価に、倒錯が生じていったのではないか?という事です。

これまでにも何度か書いてきた通り、既に江戸時代頃からその形跡が見られます。 私の長年の彼女達に関する調査及び研究の結果から導き出された結論としては、実質的な当時の諏訪御料人の立場、そして当時の現実の諏訪御料人の存在としては、後世言われているように、信玄の妻達の中で重要視されるべき当主の生母というより、信玄の四男の母として捉えた方がいいのではないか?という事です。

これも書いている通り、いくら後世の人々が、主に作家達などを中心として、諏訪御料人の存在を、武田家当主勝頼の生母として盛んに強調しようとも、当時は既に正室三条夫人に嫡男義信他数人の男児も誕生しており、また諏訪御料人の生存中に勝頼の武田家相続が確定していた訳でもなく。このように客観的に見れば、当時側室の立場で信玄の四男勝頼の母であった諏訪御料人はその存命中に、現実的に当主の生母としては扱われる事がないまま死去していますし。

また勝頼が武田家当主として健在だった時にも、武田家当主勝頼の生母として、彼女が具体的に顕彰されていたような形跡もありません。

やはり、彼女と同じような立場・存在に捉えられがちな、秀吉亡き後、公的にも実質的にも豊臣家の女主人の立場にあった、淀殿のような女性とは明らかに違うと考えられます。

 

 

一見した所、境遇が似ているように見えても、安易にこの二人のケースを同一視・類型化して捉えるのには、私は賛成できません。

それから、私の諏訪御料人についての全体的な印象としては、上野晴朗氏も指摘しているように、三条夫人のように目前で次々と最後まで子供達の不幸を見続けなければならなかった訳でもなく、このように妻としてはあまり幸せではなかったのかもしれませんが、母としては平穏な方の生涯であったように思います。

それは幼い息子を残して亡くなる、心残りの部分も当然あったでしょうが、信玄との約束通り、きっと将来的に息子の勝頼が諏訪氏を再興してくれる事を信じていたと思われるし、息子の滅亡を見届けないまま死去する事ができたのも、ある種の救いだったかもしれないですし。

もし彼女がもっと長生きして、実際に当主武田勝頼の生母としての立場を得るようになっていたら、それはそれでいろいろと難しい立場に立たされ、苦労していたかもしれないですし。

なお、諏訪湖の諏訪御料人の実際の物ではない供養塔と関連して気になった事といえば、彼女の高遠の菩提寺の建福寺の、彼女の墓所に関する看板の説明文です。 勝頼が高遠城主になった後、この地に彼が母親の諏訪御料人を呼び寄せて、共に暮らし、その後彼女が病没したため、当寺に彼女の遺体を埋葬し、「乾福寺殿」という法名を与えたのだろうと書かれていましたが、勝頼が高遠城主になった時には、既に諏訪御料人は死去しているはずです。これは、諏訪御料人の母親で、勝頼の母方の祖母の小見夫人と混同しているのではないかと思われます。

 

 

小見夫人の方は、娘よりもかなり高齢まで存命していたようであり、勝頼が高遠城主になった後、この祖母を高遠に呼び寄せ、共に暮らしています。 彼女が初めて記録に登場するのは、天文二年の十月に、「諏訪神使御頭之日記」中で神長官守矢頼真の嫡男犬太郎の誕生時に、これに対して夫の頼重は祝いの品として太刀を与えたのに対し、彼女の方は諏訪頼重の妻として、小袖を与えて祝ったというのが初めです。

信州上伊那郡長谷村(現高遠町)の池上庄市家に、この小見夫人の手紙が現存している。天正六年の十月吉日付けで、文意は、多年夫人(小見夫人)に対して、清左衛門(池上家の祖先)が無禄で奉公に励んでくれたので、あまりに気の毒であるので、夫人が孫の勝頼に無心を言って、五貫文の知行を清左衛門に申し請けることになった。

そこで奉行の跡部美作、小原丹後が、早速連判で朱印状を発行してくれたので、その旨を伝えて、安心して今後もなお尽くして欲しいといった内容。 これによれば、勝頼の母方の祖母小見夫人は、永禄五年に勝頼が高遠城主になったため、自分も高遠に移り、孫の勝頼の身近にいたことが窺える。(武田信玄 下巻  上野晴朗 潮出版社))

また、勝頼の新たに築城した新府城には、「御大母曲輪」という名前の曲輪が残されており、御大母というのは、祖母のことであり、天正九年に新府城を作ると、早速勝頼がこの小見夫人を呼び寄せ、ここに住まわせていたことがわかる。 

 

 

なお、笹本正治氏は、「戦国大名の日常生活」の中で、この手紙は勝頼の正室の北条夫人が書いたものだとしていますが、差出人の「大方様」を、「御方様(おかた)」と解釈しているようですが。

ですがそもそも、この「大方様」という呼称は、通常はそのまま「おおかたさま」と読み、家中で祖母や寿桂尼などのような、その家の女主人でやはり高齢の女性を表すという、上野晴朗先生や、小和田哲男氏の指摘があります。そして実際にも、この「大方(おおかた)様」というのは、これも平安時代の「北の方」から来ているもので、「大方様」というのは「大北の方」という意味です。また、やはり、この呼称を持つ女性達は、後家として家の中でかなりの権限を持つ存在でもあったようです。

 

それから「大方様(殿)」の定義について、更に詳しく考えてみます。

確かにこの「大方様」というのは、武将の夫人に対する尊称という意味も、あります。

しかし、実際にもこの「大方様」という呼称が使用されている、いくつかの実例を見ると、寿桂尼、筒井順慶の母、堀尾吉晴の正室で堀尾忠氏の母などの女性達の存在が発見されます。

これらの顔ぶれを見ていても、この「大方様」というのは、前当主の正室で現当主の母という意味合い・用途で使用されている色合いが、濃いように思いました。 このように、皆いずれも中高年世代の夫人達に対して使われている言葉であり、やはり私はこれはまだ十代の正室である北条夫人には、似つかわしくない尊称に思います。

 

やはり、このような使用例の数々を見ても、この「大方様」という尊称は、ある程度の年齢のいった、武将の夫人達にして、前当主の正室にして現在の当主の母上という意味が、強い言葉のように感じます。

それにまた「大方」という語感・表記から受ける印象自体も、ある程度の年齢を重ねた中年もしくはそれ以降の夫人、という印象が強いです。

このように、やはり「大方」と「御方」は、単なる表記の違いというより、初めから違う意味・用途で区別されて使用されていた可能性の方が、高いと思います。 それに今まで、いわゆる主に正室の女性などを指している事が多い「御方様(おかた)」を、通常のこの「御方様」という表記の代わりに「大方(おおかた)様」とも読めるような、このような表記で表わしている、具体的な例もないようなので。

このため、改めて私は、長年の間、池上清左衛門が無禄で自分への奉公に励んでくれるので、彼に五貫文の知行を与えてやるように、勝頼に無心しているこの手紙の差出人の「大方様」というのは、勝頼の母方の祖母の小見夫人であるという、上野先生の説を支持したいと思います。

 

それにそもそも、この笹本氏、自分でも勝頼びいきかもしれないとか言う程の研究者ですし。また私としては、何かと勝頼と北条夫人夫婦びいきという感じで、更にそれと対照的な不仲夫婦として、何かと信玄・三条夫人夫婦と対比させたがる傾向があるような感じなのも引っかかっています。

確かに勝頼の方がより現代人的な細やかな感じの愛情表現に見えるといえば、そうかもしれませんが。

しかし妻への愛情表現なんて、男性それぞれによっても、違うでしょうし。また信玄の三条夫人に対しての、勝頼の北条夫人に対するような感じの愛情表現が見られないからといって、彼らについて不仲とまで判断してしまうのは、どうかと思います。

おそらく、やはり他にも義信の謀反とか、その後の勝頼の武田家の相続などから続けて、全体的にこういう風に、彼ら夫婦は不仲という結論に繋げられていってしまうんでしょうが。

ですが私は信玄夫妻には信玄夫妻の、夫婦の絆があったと思っていますので。

 

それに勝頼が北条夫人のために、災厄を避けるような祈祷をさせていたらしいというのも、彼が母の諏訪御料人と最初の正室である織田信長養女の遠山夫人と、相次いで身近な女性達と早くに死別しているからというのも、あるのではないかと思いますし。

また信玄夫妻を家康・築山殿夫婦になぞらえるのも、どう考えても、イメージが悪いですし。更におそらく、この勝頼夫婦の夫婦愛を強調したいあまりに、この「大方様」も北条夫人だとしているような感じなのも、ちょっと彼個人のこの夫婦びいき的な見方が強いように思えて気になりますし。

このように、この「大方様」を誰かとする判断においても、より客観的に思えるという点でも、私は上野先生の見解の方に、軍配を上げたいと思います。また、このように母親と幼い時に死別している勝頼からすれば、母方の祖母でいつも身近な存在の肉親であったと思われる小見夫人を母との死別後により大切にしたとしても、別に不思議ではないと思いますし。

よってこの「大方様」が勝頼の祖母の小見夫人だとしても、十分に納得ができると思いますし。

 

 

 このように、実際に勝頼が高遠城主になった後、一緒に暮らしているのは祖母の小見夫人です。 長野県の菩提寺の看板くらい、こういう情報のまちがいには注意して欲しいのですが。 あの後、この看板の説明文が修正されていればいいのですが。それでなくても上記の、昭和に建てられた、小坂観音院の供養塔などといい、諏訪御料人に関しては何かと史実と小説などとの情報の混乱が見られるので。

そして先程のその具体的な墓所の看板の説明の、具体的な問題点についてですが。 「武田勝頼母の墓(右側)乾福寺殿梅岩妙香大禅定尼 淑霊 弘治元乙卯歳 仲冬初六日 これは武田勝頼母の法名である。

勝頼の母は諏訪頼重の女で武田信玄が諏訪氏を滅ぼしたとき十四才で信玄の側室とされ甲府に移り十九歳で勝頼を生んだ。

信玄は諏訪氏族懐柔の策として勝頼に諏訪氏の名跡を継がせ諏訪四郎勝頼と名乗らせ伊那郡の代官として高遠城に居住させた。

母の名は由布姫、湖衣姫、雪姫、諏訪御料人などといわれているがはっきりしたことはわからない。墓所についても諸説があるが、武田家の菩提寺である高野山成慶院の過去帳と当建福寺 慶長以前は乾福寺という)に安置されている位牌は時代も古く最も信頼のおける史料であると思われる これらの史料から見て高遠城主となった勝頼は母を高遠に呼び孝養に努めていたがこの地で病没したのでその遺体を当寺に葬り法名を「乾福寺殿」とされたものと思われる。」

 

 天文十一年に、武田信玄が諏訪頼重を滅ぼした時に、この諏訪御料人が当時十四歳だったというのは、おそらく「甲陽軍鑑」の記述から来ているものでしょうね。そして、一応判明している彼女の命日から逆算して、勝頼を十九歳で生んだというのは、確実におかしいです。

計算が合いません。少なくとも、十七歳の時までには、勝頼を生んでいるはずですから。もしかして、この勝頼を生んだのは十九歳で、享年は合計二十九歳という、諏訪御料人の享年は、新田次郞の「武田信玄」での享年の影響を、受けている? 既に新田次郞の小説での諏訪御料人の享年の計算自体が、側室になって、勝頼を生んだと思われる頃の推定年齢自体と没年の計算の辻褄が合っていないですし。

この墓所の看板の説明文の記述内容も、諏訪御料人について、いまだに小説と史実の区別が付けられていない事の現れの一つなんでしょうね。

特に彼女に関して、やはり井上靖や新田次郞の小説の影響は、絶大なんだなと思いました。

彼女や三条夫人を巡る、研究者達の言諭のそれだって、何だかんだいって、いまだに様々な形で、明らかにこれら各歴史小説の影響を受けているし。

 

 それから、諏訪御料人は、小説やドラマなどでは、弟の寅王を可愛がっていたように描かれやすい感じがするが、これにも疑問を覚える所がある。 確かに、寅王は彼女の弟とはいえ、母親は違う。

更に、頼重の息子の寅王は、諏訪御料人の産んだ四郎にとっては、諏訪氏の後継者の座を巡る、ライバルであり、複雑なものもあったのではないだろうか?寅王に同情する気持ちもなかったとはいえないが、母親なら自分の息子の方に、諏訪氏を継がせたいと思うのではないだろうか? 

おそらく、早い内から、信玄と彼女や諏訪氏の間で、諏訪氏の後継者は四郎にという約束が交わされていたと想像される。

しかし、頼重の息子である寅王こそが正統と、彼を擁立する方の勢力も、無視できないものがあったと考えられる。実際に、頼重の遺児寅王を擁立し、信玄に対して反乱を起こした諏訪衆は、信玄により誅されている。

なお、寅王の方は信玄により、高遠頼継の討伐のための旗印として担ぎ出された後の、消息は不明である。

 

諏訪頼重の娘であり、諏訪総領家の人間の生き残りの一人である諏訪御料人には、頼重の長女である自分には、諏訪氏の血統を伝えていく責任があるという気持ちが、あったと思われる。

やはり、母親としての気持ちからも、自分の息子の四郎の方に、諏訪氏を継がせたいと思っていた事も、想像に難くない。

そして諏訪御料人は、父頼重の自害や諏訪氏滅亡を目の当たりにし、すでに信玄の実力は理解済みであったと思われる。

また、彼女としても、四郎の実の父でもある信玄の後ろ盾を得て、弟の寅王よりも、息子の四郎の方を諏訪氏の後継に据えた方が、より現実的とも判断していたのではないだろうか?

とはいえ、禰々御料人が夫の諏訪頼重の死後、息子の寅王を連れて、武田家に戻ってきた頃には、諏訪御料人はまだ十代の女性であるため、彼女のお付きの人々からの、そうした進言があった可能性もある。

また、信玄の方にしても当初から、将来諏訪御料人と自分の間に生れてくる息子の方を、諏訪氏の後継者にと意図していたのは 、明らかである。 勝頼は上野の小野神社に寄進した梵鐘に「郡主神勝頼」「大檀那諏訪四郎勝頼」と記し、諏訪氏である事を明示していた。

諏訪氏は「神氏」とも称していた。 勝頼は武田家当主となってからも、諏訪社との関わりが深く、天正二年(一五七四)五月一日、諏訪上社の神長官・権祝・凝祝・副祝・禰宜大夫に、五日から百箇日輪番で神前に日参し、厳重に勤仕する事を命じた。勝頼自身が諏訪氏の血を引いている事もあり、自ら神氏を称し、諏訪の神官達はほぼ勝頼の家臣達と同等に扱われた。

勝頼の代になってからは、諏訪社に建物の建立が増加している。特に諏訪大社の下社には、千手堂・宝塔などが建立された。諏訪大社は諏訪氏が治める諏訪上社と金刺氏が治める諏訪下社とに別れていた。 勝頼はこの内の諏訪大社の上社の総領家の出だったが、諏訪大社の上社と下社両方の保護に努めた。勝頼はこのように、武田氏の当主となったからも、諏訪氏当主としての意識が強かったようである。

このような勝頼の行動から考えてみても、おそらく母の諏訪御料人も、日頃から何よりも自分が諏訪氏の一員である事を、常々忘れないように、息子に言い聞かせていたのではないだろうか?

 

禰津夫人

禰津夫人は、信濃国の小県の豪族禰津元直の娘で、「高白斎記」によると、天文十一年十二月十五日、小県から甲府に輿入れした。

永禄六年に、武田信清を生む。

諏訪御料人と同じく、ほとんど詳細は不明。

禰津夫人の没年は、不明。なお彼女の息子の信清は武田家の滅亡後は、一度は高野山に潜んでいたが、信長死後には姉の菊姫の嫁いだ、越後の上杉景勝に仕えた。

油川夫人

油川夫人は、油川信守の娘で、仁科盛信、葛山信貞、松姫、菊姫の母。 (菊姫の方が姉だという説もある。)   彼女の祖父油川信恵は、信虎の異母弟であり、かつて信虎と家督を争った関係である。

しかし、すでに当時の油川氏は、武田家の家臣団に加わっていた。

おそらく、次男は盲目で(後になって盲目になったという説もあるが。

しかし、信親が最初から盲目ではなかったにしても、やはり、戦国武将ならば、子供は多ければ多い程好都合だっだ事だろう。)

三男は夭折しており、義信や勝頼だけでは武田家が心配であると思われ、そして自分の一族の勢力拡大を狙う戦国武将の一人である信玄が、油川夫人を新たに側室に迎える事で、一族の繁栄に繋がる事を期待したのではないだろうか。

上野晴朗氏の「武田信玄 下巻―母と子  潮出版社」の中での指摘によると、油川夫人は元亀二年(一五七一年)に、四十四歳で病死したと言われているが、彼女のこの年齢から逆算すると、子供達の年齢との辻褄が合わなくなってしまうため、(例えば仁科盛信は、弘治三年(一五五七年)に生まれている。)天文二十二年に(一五五三年)、十七歳で嫁いできたのではないかと推定している。 そのため、実際には元亀二年に、油川夫人は三十五歳で死去したのではないかとしている。更に子供達の生年だが、次男の信貞は永禄二年頃に誕生。そして松姫は永禄四年、菊姫は永禄七年に誕生。

 

 そしてこの油川夫人が武田家で果たした役割は、大きかったと思われる。

戦国武将の家にとっては、兵力として仕える息子や政略結婚の手駒として使える娘など、一人でも多くの子供を必要としていたはずである。

そしてまた、私はこの油川夫人こそが、信玄の側室の中では信玄に最も愛されていた妻ではないかと考えているのだ。

やはり、信玄の中での妻の重要性は、彼女達が生んだ子供のさとも関係していたと考えられる。 また、彼女とは親戚同士とまた正室三条夫人の息子達が、盲目・夭折・自害と、武田家の家督を継ぐ事ができない状態となっていた当時、他の信玄の息子達には年長の息子の方では、武田勝頼、仁科盛信がいた。しかし、油川夫人の息子の仁科盛信ではなく、諏訪御料人の息子武田勝頼の方が結局武田家を継ぐ事となったのは、彼が信玄最愛の妻の息子だからというより、勝頼の方が年長だったからという事ではないかと思われる。 年長の息子の方とはいえ、仁科盛信は当時十三歳、これに対して勝頼の方は二十歳になっていた。

まだ幼い盛信よりも、すでに二十歳となっていた勝頼の方に家を継がせる方が妥当と判断されたであろう事は、想像に難くない。

また、注目すべきは、それまでの武田勝頼は、諏訪四郎勝頼であり、更に彼が当時高遠城の城主となっていた事である。

また武田氏の通字である「信」が用いられておらず、諏訪氏の通字である「頼」が用いられている事である。

やはり、この名前の付け方は、信玄が将来的に勝頼が諏訪氏を継ぐ事を想定しての事であろう。

なお、油川夫人の生んだ息子達は、その名前からもわかる通り、それぞれ仁科氏、葛山氏の養子に入り、各家を継いだ。

松姫は初め織田信忠と婚約していたが、破談となり、そのまま誰にも嫁ぐ事なく、武田家滅亡後は心源院で出家し、信松尼と称した。

菊姫の方は、上杉景勝の正室となった。

上杉家史料の「宗心様御代の事」によると、彼女は美しく、また上杉家で質素倹約を奨励する、 賢夫人だったという。油川夫人の聡明な人柄が伝わってくる。そしてこうした菊姫の堅実さも、おそらく母親の油川夫人の教育の賜物ではないだろうか。油川夫人の聡明な人柄が伝わってくる。

元亀二年、享年三十五歳程か。

「法号 香林院殿慈雲妙英大姉」