既に書いている通り、管領という当時の京都の権力者である地位にありながら、細川晴元の生涯については、不明確な箇所が多く、その生涯の正確な足跡を辿るのも容易なことではありません。

彼のその生涯全体を通じて、変転極まりないこともあり。

また、当然そんな彼の正室である、三条公頼の長女の三条夫人の姉については、本当に妹達の武田信玄正室の三条夫人や本願寺の顕如の妻である如春尼以上に、不明瞭な部分だらけで、その具体的な生涯は一向に掴むことができません。

何しろ、彼女についてはその生没年、そしていまだにその墓所すらも、確定できない有様なので。夫の晴元の墓所である普門寺には、その墓もないようですし。ただ、これらのことに関しては、どうも夫の晴元とは違う場所に埋葬されているらしいことから考えて、おそらく、彼が最終的に隠棲した普門寺に落ち着くよりも前に、その数年前に、彼より先に世を去ったのかな?と推測される程度というか。

通常は離縁でもしない限り、夫婦が同じ地域の寺に埋葬されるケースの方が多いと思いますし。

 

ただ、これは私が既に細川晴元の記事や細川晴元夫人の記事の中でも書いているように、おそらく、彼女の死去後に、晴元に新たに正室として迎えられたと思われる、六角定頼の娘の生んだ息子の細川昭元が天文十七年に生まれていることから推測して、この三条夫人の姉はこの年の前後くらいに、亡くなった可能性が高いのではないかと考えられますし。

 

そして最近、この細川晴元夫人と晴元の結婚の時期について、少し手がかりになりそうな論考がありました。

細川晴元は永正十七年に、幼くして細川京兆家の家督を継いでいる。

当然のことながら、その実権は側近である可竹軒周聡が握っていた。

そしてこの晴元自身が主体的に行動し始めるのはいつ頃なのかというのは、確かに興味深い問題です。

この問題については「戦国氏研究 第73号 吉川弘文館」中の、馬部隆弘氏の「青年期の細川晴元」という論考の中で、細川晴元の発給文書の花押とその呼称の変化から、その時期の解明が試みられている。

 

まず、晴元の花押を用いた文書発給が認められるのは、享禄四年だが、享禄元年が晴元十五歳の時の判始の年に当たるため、実際には彼はこの頃には花押を使い始めたと考えられる。

ただ、注目すべき点として、天文三年の五月十二日から、それまで晴元が用いていた花押とはまた違う、新たな花押を用いているのが初めて見られれることである。この変化の理由については、おそらく初めは周囲に言われるがままに定めた最初の花押を、当時二十歳になっていた晴元がおそらく自発的な意志の芽生えと共に、それまでの花押をこれも自発的に改めようとしたからではないかと考えられる。

更におそらく彼の成長と共に自然とこうした主体的な意志を示し始めていく様子については、これも彼が署名している、一連の文書に見られる、その彼の呼称の変化からも、窺うことができる。

 

 

まず幕府奉行人奉書では、天文三年十月七日付まで京兆家に対する宛所は「六郎殿代」となっているが、天文四年十月十八日付を初見として「右京兆代」に変化している。また当時の資料的価値も高いものとして有名な「言継卿記」の著者としても有名な山科言継は、天文四年の正月に「細川六郎所」に赴いている。なお吉井功兒氏の指摘によると、右の一連の事例を踏まえて、「歴名士代」が晴元の右京大夫任官を天文六年八月一日とするのは誤記で、正しくは天文四年八月一日であるとしている。

更に続けて、当時の通例から見て、右の任官と将軍足利義晴からの偏諱の授与は、同時のことだとも想定している。

だがこれに対し、この馬部隆弘氏は、この点について、更に細かく検証を進めている。

「去月廿日、於摂津州下郡潮江合戦時、父帯刀左衛門尉討死、忠節段誠神妙、且不敏至候也、謹言、

  十一月三日         晴元(花押)

      瓦林太久丸とのへ」

上記の末吉文書十一号(「兵庫県史」史料編中世9)中の、この晴元の署名は、天文三年十月二十日に三好長慶方の三好連盛・長逸が「潮江庄西の田中」で三好政長勢を破っていることから年次を特定できる。

よって吉井氏の想定とは異なり、六郎署名の確実な終わりである天文二年末から翌三年の十一月までの間に、晴元と名乗ったことになると指摘する。

 

だが一方、この晴元の右京大夫任官は吉井氏の想定通り、天文四年の中頃からのようである。そしてこの点で参考となるのは、天文五年三月に晴元からの使者として、山中藤左衛門を迎えた時の本願寺の認識であると更に馬部氏は指摘している。

この時証如は山中氏を「右京大夫」からの使者とするのに対し、実従の方は「六郎殿」の使者という認識である。

おそらくこの細川六郎が義晴の偏諱授与と同時に右京大夫に任官されたとすると、さすがに天文五年には周知されているであろうから、この実従の認識の遅れは、任官からまだ間がないことを示唆しているのだろうとも、馬部氏は続けて指摘している。

 

以上のように、享禄年間頃から晴元は花押による決裁権を持つようになつたが、彼の一連の発給文書からも明らかなように、本格的に文書を発給するようになるのは天文二年まで待たねばならない。

そしておそらく、天文二年二月の、彼の幼い頃からの側近である周聡戦没が転機となったのだろう。

その後、天文三年に入ると、いよいよ晴元は自ら花押を改めている。

このように、側近の周聡死去後から晴元は、しだいに主体的な意思を表立って発するようになる。そして天文四年には右京大夫として、名実共に京兆家の当主となったようである。

そして改めて、一体細川晴元と三条公頼の長女である晴元夫人との結婚が行われた年はいつなのか?という問題について考えたいと思いますが。

やはり、彼がこのように天文四年に足利義晴から偏諱を授与され、同時に右京大夫に任官され、このように細川晴元と名乗るようになり、名実共に細川京兆家の当主となったこの年に、三条公頼の長女である三条夫人の姉と結婚したのではないでしょうか?

 

つまり、天文四年に、管領の細川晴元と三条公頼の長女との婚姻、そして続く天文五年には、武田信虎の嫡男晴信と三条公頼の次女である三条夫人との婚姻が、相次いで行われたということになりますね。

 それにしても、このように管領の細川晴元、そして武田晴信と三条公頼の娘達の二組の結婚が、ほぼ同年に行われている可能性がかなり高そうであること。私はこれはどうも単なる偶然だとは、考えずらいと思います。

意識的にこの彼ら二組の結婚は、このようにほぼ同年に設定されたのでは?つまり、この二組の結婚は、密接に連動していたのではと思われます。これらの結婚は、京都の名門公家である三条公頼の娘達が、いずれも関係している結婚だということから考えても。

朝廷、管領家、そして武田家など、彼ら多くの人々の思惑が絡んで、このようなほぼ同年の結婚という形になったことも、考えられるのでは?

ある意味、このように婚姻を通じた、かなり有力な義理の兄弟関係の成立になると思いますし。

 

 

それに細川晴元側としては、こうした武田家とも婚姻を通じた繋がりができ、ぜひともこれは何かと自分の機内での権力維持などの、自身の利害のために利用できるものなら、存分に有効に利用したいと考えていたでしょうし。またそれは武田家側も、同様でしょう。

また朝廷は朝廷で、天文五年の九月には、摂津の芥川からついに入京を果たし、足利義晴を擁立して政権を確立させた管領の細川晴元、そして最近急速に注目度が高まりつつある、甲斐の有力大名の武田信虎の嫡男である武田晴信という、いずれも頼もしい勢力であったかと思われる、これら彼らの連携に期待を抱いても、おかしくはないと思います。

そもそも注目すべきは、天文五年の晴信と三条夫人との結婚の二ヶ月後である九月に、おそらくこの彼らの結婚の見届け役として朝廷から派遣されていたと思われる、正親町三条公叙が下向先の甲斐から帰京して、後奈良天皇に酒饌を献じている点です。

やはり、地方の一大名の嫡男の結婚に、ここまで天皇直々に関心を示すとは、異例であると言えます。そしてこれは更に、何かやはりこの婚姻が三条家の分家の正親町三条家も絡んだ、つまりひいては朝廷をも含めた重要な意味のある結婚であったことが想像されます。

 

 

こうした一連の様子を見るにつけても、やはりこの武田晴信と三条夫人の縁談は、単純に三条公頼個人の思惑だけから、ぜひ娘を信虎の嫡男の晴信に嫁がせたいと思ったことから出ただけの話とは考えずらいですし。

武田信虎嫡男の晴信と京都の名門公家の三条公頼の次女である三条夫人との結婚は、かなり多くの人々にとっての、重要な意味を持った結婚であると想像できます。また、実際にもこの結婚は天皇からの勅諚ではないかとも言われている。

このように、それこそ、朝廷、管領家、武田家周辺などこのように大勢の人々の注目や期待を集めてのこの二組の結婚だったと考えれば、細川晴元と三条夫人の姉、そして晴信と三条夫人の結婚がほぼ同年に行なわれているようであるのも、より納得しやすくもあると思いますし。

 

 

つまり、まず天文五年の三月に、武田信虎の嫡男の太郎が足利義晴から偏諱を受けて、晴信と名を改め、更に信濃守大膳大夫に任じられている事。更にその後、朝廷から勅使として三条公頼が甲府に派遣され、勅命によりその次女を晴信に嫁がせることになったこと。

そしてこの天文四年と天文五年と相次いで行なわれたと思われる、細川晴元と三条公頼の長女との結婚、更に武田晴信と三条夫人との結婚は全て連動していたと考えられます。