快川紹喜

恵林寺
恵林寺
武田信玄墓所
武田信玄墓所

文亀二年(1502)―天正十年(1582)。

 快川紹喜は、美濃国崇福寺の住職であり、出自は土岐氏の豪族であるとされている。これらの説は、江戸時代の史料の「美濃国稲葉郡志」・「延宝伝灯録」や、これらを元に作成された、「岐阜市史」に拠る。

しかし、快川和尚の出自は、美濃国の斎藤氏の重臣の道家氏だという説もある。道家氏は、尾張国にある一族である。

この道家氏説は、永禄七年の十一月二十五日に、快川和尚自らが作成した、「恵林寺再住法語」にその根拠となる記述が見られるという。 この中で、快川和尚は尾張国の道家氏の出身で仏門に入ったと書かれているつまり、この記述から検討して、快川和尚は、斎藤氏の重臣道家左京進の息子だというのである。

 

 永正十年(1513)に、十二歳で快川紹喜は出家し、美濃国の天衣寺の隠峰紹建の弟子となる。

十一年後の永正十六年の秋に、雲外玄嶂と快川の二人の俊才の弟子を抱えていた隠峰が病気になったため、隠峰の希望で快川は同門の雲外と共に、崇福寺の仁岫宗寿の許へと移る。

快川が仁岫に入門した翌年の永正十七年(1520)正月に、彼の弟弟子の五峰胤祝が、快川の入門を祝って作った一文がある。

私ごとき者が申し上げる。喜公侍者殿の今後を祝う言葉を述べる。

鴬や蝶が出て、牡丹が花をつける。

雪は消え、若葉が茂る。

我が禅宗が盛んになり、王道も栄えるように。

あなたは学問に秀で、友人にも信頼されよう。

崇福寺全般に気を配るのは普通の僧ではない。

小玉寮中の者に親われ、みな風流待者という。

詩を作れば秀で、詩を論ずれば負けることがない。

龍章か風章かというほどに詩の出来はすばらしい。

人瑞か天瑞というほどに皆が歓声をあげる。

 もとからこのように仁を備えており、一人寝で寒くとも、常日頃フトンを工夫し、ゆとりを持つ。

いつの日か妙心寺へ住山し、門下の花となる。

 

その時を待ち、謹んで申し上げる。

永辰春王正月吉日 右五峰和上これを書くなり。

 

 つまり、当時の快川紹喜は人望も厚く、かつ学識や能力にも恵まれた、常に将来有望な人物として、人々の目に映っていたという事だろう。天文四年の秋に、美濃の兵火で崇福寺は全焼してしまう。

やむを得ず仁岫は、快川ら寺の全員を引き連れ、大矢田の北にある龍雲庵へ避難した。

天文五年の九月に快川は、仁岫から「快川」という道号を与えられた。

これは俗界の苗字に相当するものである。

仁岫はこの命名の由来について、こう言っている。

「快」の字は、快喜に通じる良い名であり、「川」というものは大地をも穿つ流れであり、泉に発して大海へと注ぐ。幾百千の支流を集めて大河となり海へと至る。臨済宗もまた、しかりである。よって、大成を願い、これを祝福して一文を与えるものである。

また童子に、快川は、仁岫の画像を用意し、賛文を書いてもらった。

師の画像(頂相)に師自ら賛文を書いてもらう事で、僧侶としての一人立ちを認められたという事である。

快川もまた、一寺の主となって独立できると認められたという事である。

 

快川もまた、一寺の主となって独立できると認められたという事である。

翌年の天文六年には、快川は尾張国葉栗郡門間に弘済寺を建てたという。

天文十五年頃、大桑に南泉寺が創建されると開山に、仁岫が招かれたため、快川も彼に従い、南泉寺へと移り、

活躍を開始する。なお、当時の美濃国や尾張国の動静としては、織田信秀が死去し、息子の信長が新たな当主となり、斎藤道三の娘の濃姫を正室とした。

天文二十年の六月十五日には、快川の師であった仁岫が死去した。

このため、快川が続いて南泉寺住職になった。

その後、快川は一派の推挙を受けて、南泉寺から京都の妙心寺へ奉勅入寺、もしくは居成りを果たした。

 

奉勅入寺とは、妙心寺において三日間の儀式を行なう事で、妙心寺へ住持を果たしたのと同じ「前住妙心」の称号と紫衣の着用が許可される事を示している。天文十一年に、妙心寺に初住と再住を果たした後、南泉寺へと戻ってい快川は、天文二十二年に信玄に招かれ恵林寺に入った。弘治二年の二月頃、快川和尚は恵林寺に住山する。

同年の五月に、甲府の東光寺住持の仁甫珠善が死去した。

そこで快川は、仁甫の法嗣である藍田恵青に書を送り、哀悼の意を述べた。また東海派の本寺である岐阜の瑞龍寺の祖堂に仁甫が入牌するための職銭もほぼ集まった事も報じ、また東光寺の後任としては、仁甫のただ一人の法嗣である藍田以外にはないので、少しでも早く招請状の通り東光寺へ越されるようにと書いている。

(「葛藤集」)文中には檀命も異議なしとあり、これは信玄の承認を得ての事であるのがわかる。

仁甫珠善は信玄の信頼が厚かった人物であり、藍田は信玄の意向を汲んだ快川に東光寺の次の後任として推挙されたのである。

 

治二年のものと推定される成就院宛ての快川の書状によると、「来年(弘治三年)三月には妙心寺で開祖祖師の二百年忌が執り行われる事になり、これを記念して居成りが三人勅許される事になった。

それで、美濃岩村大円寺の希庵玄光の推挙により東光寺の仁甫が指名され、居成りの請書が京都から下着した。その結果、府君信玄は一万疋(銭百貫文)を奉加(上納)すると言われた。これは宗門の大幸とするべきであって、仁甫が府君の崇敬を受けている事を領下の者達が皆知っている事の証でもある。それで、成就院におかれても座元翁(説三だと思われる)が祝いの物を出すようにされるとよい」と書かれている。(「葛藤集」)

成就院は、後に説三和尚により開山となり、信玄の正室の三条夫人の死後に円光院と名を改められ、三条夫人の菩提寺となっている。

このように、京都の妙心寺の居成りを直前にして、弘治二年の五月に、仁甫は急死してしまったのである。

そして更に仁甫に続いて、翌月の弘治二年の六月には、岐阜市長良の崇福寺住職の、五峰元祝も、死去してしまった。

この訃報に接して快川は、次の一喝を恵林寺から送り、深くその死を惜しんでいる。

「謹みて悼偈の尊韻による。遥かに前住崇福寺五峰和尚の祖塔に礼せり

 快川 

 

 

 先師の法道は中興の禅なり、崇福の住山は今に六年、李広将軍五峰老、鵬を射る一箭西天を過ぐ(「南泉寺快川録」)

の二ヵ月後の弘治二年八月十八日には、快川が書状を出している。

「五峰の遷下は誠に宗門の滅却ともいうべき残念極まりない事だ。

しかりとて、崇福寺の住持職は非力な私の及ぶところではない。

また、太守信玄も私が甲斐国を去る事をお許しにならないので、あなたの指示にも応じられません。むしろ、あなたが早速御住院下されば宗門の栄えとなる事でしょう。後日、美濃へ帰った時、遠国からの専使に謝礼申し上げるつもりです。」と返答している。美濃の法泉寺の一伝に対して送った書状と思われる。快川はこの書状の中で、あなたこそ崇福寺の住職に相応しいと伝えているのだと思われる。

しかし、岩村大円寺の希庵からの書状の中で、五峰に続き、弘治二年十月一日に一伝も急死したという報せが届けられた。

これにより、快川は信玄の許しを得て、美濃国へ帰国を決意し、弘治三年の一月に崇福寺へと戻った。

恵林寺の後任には、これも名僧として名高かった、京都の五山派で妙智院の策彦周良が選ばれた。

 

 

快川は弘治三年に崇福寺に戻って以後、永禄七年に再び信玄に招かれ恵林寺に赴くまでの七年間は、「護阜快川」の名前を使い、署名したものが多い。

当時、美濃国国主は、斎藤道三から斎藤義龍へとなっていった。

こうして現在美濃国国主となっている義龍にも、動向によっては注意を与えるくらいの気構えを表わしたものだろう。

永禄三年の四月十日には、義龍の幼児が亡くなり、そのために快川は悼偈一篇を上呈した。

この事から、当時斎藤家は日蓮宗を侵攻していたが、義龍の代になってから、義龍が禅宗に傾倒していった事がわかる。

実際に、義龍は別伝座元に帰依し、伝灯寺という禅宗の菩提寺を創建した。

ただ、これは義龍が一色氏(つまり清和源氏の後裔)を公称するようになったため、日蓮宗から禅宗に転じて自家の菩提寺を建てる必要があったという、便宜的な要素が大きいものであった。

 斎藤義龍は、伝灯寺創設に当たり、京都妙心寺派の別伝座元に帰依したが、この別伝が「永禄別伝の乱」と呼ばれる事になる、一大宗教紛争を巻き起こす事になった。

別伝の不法な行動に、美濃国内の妙心寺派の僧侶の快川ら多数の反対者が続出し、困った義龍は妥協を持ちかけたが、快川は自分の正しいと思う所を主張し続け、これに応じなかった。

彼らは瑞龍寺で評議した結果、別伝の不法な数々の行ないから考えて、妙心寺派から破門するのが相当と判断し、京都の妙心寺にも別伝の行動について報告した。永禄四年の三月二日になってから、妙心寺からの回答があり、別伝の悪行につて、彼を除籍する事に決定したという回答があった。快川達の主張に理があると認められたのである。

 しかし、義龍もこれに素直には応じず、二月二十六日付けで奉行から妙心寺へ手紙を出させ、「別伝のわずかな誤りを誇大に言いふらし、除籍を願い出る快川こそ大敵である」と、抗戦の構えを見せ、朝廷への工作により、永禄四年四月二十四日付で、「少林山伝灯護国寺を天皇の勅願寺となし、紫衣勅許の寺として京都南禅寺と同格になす」という綸旨が出された。このような不法により、妙心寺さえ滅亡の危機に立たされたとし、妙心寺からは五月九日付きで美濃の各寺が至急上洛するようにとの通知が出され、これを受け、快川・希庵・十洲の三名が上洛し、善後策を練る事となった。こうして、この事件はいよいよ天皇・将軍をも巻き込む、宗教紛争へと発展してしまったのである。

 

 

しかし、事態は意外な展開を見せる。

別伝と共に、この騒動の発端を作った一人である、義龍が永禄四年の五月十一日に、急死したのである。

また、二日後の十三日には、早くも織田信長が木曽川を越えて美濃へと侵入し、義龍重臣達も、この防戦に全勢力を注がねばならなくなった。

こうして支援者の義龍を失った別伝は、もはやこれまでと思い、伝灯寺に放火しようとして見つかり逃走した。

こうして、「永禄別伝の乱」は収束したのであった。

 

義龍の葬儀は、彼の死後から五ヵ月後の十月十一日行なわれた。

永禄別伝の乱と信長の美濃進入に対抗するために、葬儀が延期になっていたのだった。

葬儀には、快川ら妙心寺派や五山派の僧侶が招かれ、この葬儀で快川は大導師を務めた。

 

快川の名声は、天文二十四年の恵林寺住山以来、広く妙心寺派内に知れ渡る事になった。

また、「永禄別伝の乱」で、事態の解決において指導的役割を果たした事からも、大きな彼らの信頼を得る事になった。永禄四年の九月に、妙心寺での評議により、快川が妙心寺の住持に選出された。

快川は、永禄四年の八月には妙心寺へ入り、入寺開堂式を済ませていた。快川は永禄六年の五月十一日に行なわれた斎藤義龍三周忌にも、再び出席した。美濃国の情勢は、また揺れ動き、義龍の跡を継ぎ、当時息子の龍興が稲葉山城主となっていたが、永禄七年の二月六日に、竹中半兵衛により奪取されてしまった。

このような時期の秋頃、快川は恵林寺への再住を信玄から打診された。

快川はこれを受けて間もなく出発し、十一月二十五日には、恵林寺再住法語を作っている。 そして同年の十二月一日には、快川和尚宛てに信玄から寺領に関する判物(証文)が出されている。

これによると、寺領からの年貢は二百貫二百文で、別に米に大豆・栗が一二七俵一斗四升、薪などが五九二駄一把あり、更に修補領九貫五百六文、僕・鍛冶・番匠達の手当てとして七五貫余りだった。

信玄は恵林寺についてこのような十分過ぎるほどの手当てを付した上で、「恵林寺の叢林の風土を改めて、信玄牌所として一円寄進するので、関山一派(妙心寺派)の規模(方式)で執り行われ、仏法を興隆されたい。弟子の中から器量の仁を選んで住山させ、万々世にわたって続くように」との一文を付け加え、署名している。

永禄六年の恵林寺領検地帳からはそれまでも八〇貫文ほどの寺領収入があり、かなりそれまでの恵林寺も裕福であったが、信玄は快川のために更に大幅な寺領の加増を行っている。

このように快川は、信玄の厚い信頼を受けて恵林寺に入寺した事がわかる。

快川が再び甲府の恵林寺に住山するにあたり、入寺開堂の式が終了し、信玄の菩提所として恵林寺に信玄の位牌を新造して安置した時に作った「恵林寺殿四品機山玄公大禅定門入牌法語」によると、甲信両国の太守である信玄は、永禄七年十一月二十五日に、恵林寺の祖堂に自身の位牌を安置し、武門としての繁栄と恵林寺の興隆を願ったという。

 

実は快川のこの恵林寺再住には、斎藤龍興を救うという、重大な政治的使命が秘められていたのである。

その事は次の二通の快川書状が示している。

「①貴国(濃州)と当国(甲州)との会盟を媒介することについて、詳しく指示をいただき、また二種類もの礼物を届けてくださったことにお礼を言います。特に御使僧となった汾陽寺住職は、寒さ厳しい折ながら私と共に、恵林寺から甲府へ行き、甘利左衛門尉のもてなしを受けました。

さらに徳栄軒(信玄)からも大変なもてなしをいただいた。

金銀華飾のすばらしさは、私も初めて見たもので、甘利の私宅ですらこれに劣ることはなかった。

この盟(同盟)は、まことに目出たいことです。

なお、汾陽寺が詳しくお伝えするでしょう。

恐惶謹言。

 

 快川紹喜

 

一色殿   恵林寺

 

幢下貴報

②貴国と当国は終始に表裏なく入魂(親密)の誓詞(誓約文)が奉行より当寺に届いたので、その写を送ります。貴国からも同様の誓詞の写が私の所に届きました。よってその本文も進上します。

この上は太守と太守が直書をもって誓約する手はずになっていますので、貴殿の使僧が当方の使僧にともなって来ていただきたい。いささかも御うたがいなきように。恐惶謹言。

(武井肥後入道)         甲州

夕庵老人     恵林寺

  研右」  (長春寺蔵「高安和尚法語)

 

 

 この快川の書状の内容によると、快川の仲介工作により、美濃からは斎藤龍興の使僧として、厳寒にも関わらず汾陽寺住職が甲斐へとやってきた。そこで快川と汾陽寺住職は、共に甘利左衛門尉のとりなしで信玄に面会したが、その建物は金銀で飾り立てたすばらしいものであった。

これに前後して、龍興の奉行と信玄の奉行との間で同盟の合意文書が取り交わされ、続いて龍興と信玄が直接文書を取り交わす手筈が整ったというのである。当時の美濃国の情勢などからも考慮し、この二通の書状が書かれたと推定される、永禄八年(1565)の十一月から十二月頃に、龍

 興と信玄の間に、正式に軍事同盟が成立したと考えられる。

このように、美濃国国主義龍を救うために、信玄との同盟に奔走し、成立させた快川だが、今度は一年前の永禄七年に発生した、甲斐国国主信玄と義信の深刻な父子対立の果ての義信謀反、そして東光寺への義信幽閉という事態改善のために、翌年の永禄九年から駆け回らなければならなくなるのである。

 

 

同年の六月二十二日の、京都の臨済寺と甲府の長禅寺住職の、春国光新宛ての二通の快川の書状によると、彼やこの春国、そして東光寺の住職であった藍田恵青らと共に、父子和解と謀反事件で追放された義信家臣達の赦免のために、尽力していた事がわかる。

すでに、父子和解については、「甲陽軍鑑」にも、四年前の二月に、龍雲寺の北高全祝や大泉寺の甲天総寅が父子の和解を図ったが成功していなかった。

注目すべきは、この書状の中で、義信謀反は、必ずしも義信が悪いという判断はしていない事である。

義信の主張にも正しい点があり、信玄の方にも誤解があっての事だとは思うが、もう少し義信の話にも耳を傾ける姿勢を持ち、考え直すべきだとしているのである。これは、明らかに「甲陽軍鑑」の見解・姿勢とは異なっており、注目される。「甲陽軍鑑」は、義信謀反事件に関しては、基本的に義信の方が悪いという姿勢を示しているからだ。

しかし、結局彼らの努力は実を結ばず、永禄十年の十月十六日の義信の自害という、最悪の結末を迎えてしまう。

なお、この前年の永禄九年の十一月には、三条夫人が義信の赤皮具足を美和神社に奉納し、幽閉からの義信の赦免を祈願している事からも、当時の深刻な情勢が伝わってくる。

義信死去後、東光寺で葬儀が営まれた。

出席した導師達の中には、信玄と義信和解のために努力していた快川や藍田、春国の姿もあった。

彼らは一様に、義信を幽閉から解放し、自害を防ぐ事ができなかった事にして、沈痛で無念な思いであった事だろう。

 

 

この前後の永禄十年の五月に、快川は美濃に帰還し、義興が稲葉山城で執り行なった、斎藤義龍の七周忌の法要に出席している。

翌月の六月十五日には、崇福寺での、師の仁岫の十七回忌斎会に出席している。

その後も、彼はしばらく美濃に留まり、九月には尾張国熱田の浅井氏の隠居・浅井酉牧の求めに応じ、和歌に因む一文として「夢想」と題して長文の漢文を書き送っている。

この年の十月頃には、恵林寺に戻ったようである。永禄十一年の五月七日には、武田館で執り行われた武田信虎の正室で信玄の母の大井夫人の 十七年忌法要に出席し、副導師を務めた。

 

 快川は、この頃甲府に集っていた、他の禅僧達と同じく、優れた禅僧の一人であり、信玄とは水魚の交わりと言われる程に 信玄の旗の「風林火山」の文字は、彼が書いたとされている。

信玄・三条夫人夫妻と交流が深く、彼ら夫婦の事を熟知しており、信玄とも領国支配などに関しても意見を交わすような関係であった人物だったと思われる。

快川和尚は、天正九年の九月六日に、その学識と徳の高さから正親町天皇から国師の称号を与えられている。

その綸旨には、「関山国師から九世に当たり、仁岫上人の第一の弟子と言うべき快川和尚は、天下にその名が知れわたり、恵林寺で禅風を鼓舞している。朕(天皇)は、遥かに和尚の道風を聞き及んで感動したので、特別に大勝智勝国師の号を与えるものである。」と記されている。

この快川の名誉な出来事に対して、例えば崇福寺の虚庵恵洪は、八月二十九日に出雲守権少々氏貞作の剃刀一双を添えて恵林寺へ送り、快川の国師号下賜を慶賀している。

 

甲府の高山玄寿は国号を与えられた快川に、正月を慶賀して次の和韻一喝を寄せている。

「古寺に梅が咲き、あなたは南風に祥風を弘める。一枝は春色を表わし、一枝はまだ開花しない。天皇は東方の師に師檀の礼をとる。妙心寺玉鳳院も花に包まれている。 歳旦 高山」

正親町天皇から国師号を賜った後初めての新春を迎え、快川は黄麗化龍と題する一喝。

 

「鶯が中国の禹聖人の門に入って形を変え、金の衣を八十一枚もまとった。桃の花が咲き、これは大変だとの叫びが聞こえる。まるで鳥が龍に化けたような騒ぎだ。」これによれば、自ら金衣をまとって八十一歳になったと解釈できるため、快川はこの天正十年には、八十一歳であったと考えられる。当時の快川の名声は、遠く甲州から京都にまで聞こえていた。元亀元年の三条夫人の葬儀では、大導師と下火を務めた。

 快川和尚は、彼女に関してこんな追悼の言葉を残している。

 

「あなたは五十年の間、御仏の道を説いてまいりました。

しかるに重陽の菊の節句に先立ち、涅槃にはいり、やわらかく透きとおった、真の御仏になられてしまわれました。まさに三条家の明るく光り輝くともしびは、霊山の涙一色におおわれてしまったといえましょう。

それも人生五十年、常にうれい悲しむ、西方の一美人として貴女は存在しておられたのです。謚は円光院殿梅岑宗は大禅定尼

 うやうやしく惟みるに貴女は朝廷に伺候する家筋、すなわち尊き家柄の華族の一員として、また女性としてお生まれになられました。

 そしてお人柄はまさに、円光日の如く、あたかも春の陽ざしのように、周りの者をやわらかく暖かく包む御気性であられました。その御姿はまさに大いなる功力をもたれている観世音菩薩のように、相互関係をもった褒貶の界の中のみにくいものを掃除し、洗い清めて下さいました。

 唐の高宗の皇后であられた則天武后は、欲の深い俗界をためなおし導いて下さる、弥勒菩薩のようだといわれてきましたが、まさに貴女もこの世に桃源の境をつくろうと、民衆を撫育しておられました。

 その歩みは常に最高の真理の認識の上に立って、知識の海をかかげひるがえして、衆生の心身が悩乱して踏み迷い、方向を見失っているのを、救ってやろうと、迷いを断ち切るように努力されていました。

 

 それはあたかも、松風とツタカズラを通して見る月影のように、三条夫人の御裏方の様子は、常に夫につかえて礼法がととのい、経文の声が流れて、仏法を導いてくれる馬郎(仙女)の口を借りることもなく、自然に道を説いている姿が印象深く残っています。

その御様子は、常に身一つが薫草のように、梅香の匂いを室内に漂わせている思いがいたしました。いま御仏に成られても、はるかなる龍宮に住むという龍王の姫のもとに参じてしまうこともなく、なお人間界にとどまって、女性のもつ五つの障りや、女性の守るべき三従の教えをよく説いて下さっているような思いに駆られています。

思えばそれだけに、御裏方には常に供養に御用いになる、種々のものが整っていました。それをまた慕って、武田家につながる御婦人方が貴女のまわりに集まってきて、御裏方には平和が満ち充ちていたように思います。

 

 貴女はそのため、そのご婦人方のためにも、たえず工夫をこらし、相談して、はかり考えて下さる方でした。まさに三条夫人の仏法は、鴛鴦の仏法と断ずることができましょう。

すなわち、夫武田信玄公との間は、比翼の契り、夫婦仲の睦まじかったことは譬えようもなく、常に仏法護持の信玄公のお考えにそって行動され、七宝に輝く堂舎のことなど考える暇もなく、正邪を判別する認識の上に立って身を律しておられました。そしてついに、臨済禅のなかで燃えつき、涅槃に逢着されてしまわれたのです。

 やんぬるかな、悟りの境地を貫きとおされ、炎のような黒い輝きとなって、身罷ってしまわれたのです。

 いま信玄公を中心とする、武田家のその歩みは、威風が千世界に遍き、その中にあって、夫人の遺徳を守る心意気と心ばえが、婦女子の間に大地のようにしっかりと、正直に豊かに嘘いつわりなく、目的に向かって進んでいます。だが、人生ははかない。

たとえ、いかにそれを受用し、将来すといえども、生死の問題は常に岸頭にいるようなもので、未だ大作家の境地にはいたれません。

 そこで山僧快川が、導師としてこの世のお別れに指図して陳べることにします。

 火把子を以って火葬して曰く。看よ、看よ、国主徳栄軒信玄のもと、玉の如きもっとも傑出せる人を、棒喝を加えて敲出する。 喝 一喝。」

 

信玄は元亀三年から西上作戦に取り掛かり、元亀四年の四月の野田城攻めの頃から発病し、病状が思わしくないため、甲斐に帰国する途上、四月十二日に信濃の駒場で死去した。

なお、この臨終の際に、重臣の馬場美濃守信房に日頃から陣中の守り本尊としていた勝軍地蔵と刀八毘沙門像の二体を、正室の三条夫人の墓所の円光院に納める事を遺言した。また、信玄の遺体も、円光院に納められるはずだったという。信玄は自分の死は三年秘す事を遺言した。

恵林寺の「天正玄公仏事法語」によると、天正三年の四月十二日に、非公式であり、おそらく勝頼の個人的行事として武田館で催されたものだと思れるが、信玄の三周忌法要が行なわれた。

大導師は長禅寺の春国が務め、副導師は快川が務めた。

信玄の葬儀は、遺言した信玄の死から三年後の天正四年の四月十六日に執り行われた。大導師は快川紹喜が、掛真は東谷宗杲が、起龕は説三恵燦が、奠茶は速伝宗販が、奠湯は高山玄寿が、下火は快川が、起骨は鉄山宗鈍が、安骨は大円智円が務めた。

信玄の遺体は恵林寺に埋葬された。

葬儀の場所についてだが、南泉寺の「甲恵集」によると、同日に行なわれた初七日忌の香語によると、武田館を荘厳にして執り行ったと述べられており、信玄の葬儀も武田館で盛大に執り行われたと考えられる。

 

 

しかし、信玄死後、勝頼の代になってから、天正三年五月二十一日の、長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗して以降、武田氏は衰退の一途を辿っていった。このような状況を見兼ねた快川は、天正七年から勝頼と信長との講和に向けて、仲介に乗り出し始める。

この事に関しては、すでに野沢公次郎・城一正氏の「恵林寺略史」と、上野晴朗氏の「定本 武田勝頼 新人物往来社」の中で指摘されている。その根拠としては、天正九年の八月二十三日付きで南化玄興から美濃大龍寺淳岩に宛てた書状がある。

この書状は、「南化玄興遺稿(「山梨県史」資料編中世三下」に見える。

差出人は欠けているが、南化玄興と推定され、南呂(八月)二十三日付きで恵林寺丈席衣鉢閣下に宛てられている。

おそらく、師の快川に宛てられたものだと考えられる。

この中で、甲濃和睦の件について、「 兌公首座を国賓として扱えば幸いで、この一件がもし成就すれば、柏堂と淳岩二老が手をとりあって下国し、甲州で快川の尊顔を伏し拝む事をお待ちしている」、というような内容である。この中で恵林寺の方丈完成を祝っている事から、この手紙は天正九年ではなく、天正七年八月二十三日のものと考えられる。

南化玄興は、当時おそらく美濃国にあり、稲葉一鉄の菩提寺である大垣市曽根の華渓寺周辺にいた可能性が高く、また南化は天正六年の冬に「安土山記」を書いており、信長とも面識があった。

このように、信長→一鉄→南化→快川→勝頼という一本の交渉ルートに乗って、岐阜と甲斐の和平交渉が内密に開始されていた可能性がある。

 

 天正九年の十一月に、当時美濃岩村遠山家の養子となっており、岩村城が武田軍の武将である秋山信友の侵攻にあい、彼らが武田側に寝返ってから、武田氏の人質となっていた信長の五男御坊丸を、勝頼が信長の許へと送り返してきた。この時期は、信長の甲州攻めがいよいよ予想され始めた時期と重なっており、これこそ快川が勝頼に進言し、甲濃和親のために実行された策だった可能性がある。

しかし、時すでに遅く、信長は武田氏との講和を目指すよりも、征圧を決意していたのであった。

 快川和尚は、武田家滅亡から一ヵ月後の、天正十年の四月三日に、信長の追っていた、大和淡路守・上福院・近江の浪人佐々木義治を匿い、信長から引渡しを命じられても応じなかったため、怒った信長により、恵林寺の山門楼上に追い上げられ、百十四名の僧と共に焼き討ちにあい、「安禅必ずしも水を須いず、心頭を滅却すれば、火自ずから涼し」という言葉を残し、壮絶な最期を遂げた、気骨ある名僧だった。

信長が恵林寺を焼き討ちしたのは、快川が三人の引き渡しに応じなかった事もあるが、武田氏との関わりが深い、快川の事を敵対勢力であると見なしていたからであろう。

快川は、この一件の他にも、「永禄別伝の乱」に際しての、義龍との意見の対立の際に見せた、自分の信念と正しいと思う所に従い、毅然とした対応を取り続け、ついに別伝の追放に成功した事など、硬骨漢であったようである。有名な快川和尚の「安禅必ずしも水を須いず、心頭を滅却すれば、火自ずから涼し」の偈が、恵林寺の三門の脚の両袖にそれぞれ、「安禅不必須山水」・「滅却心頭火自涼」と掲げられている。

 

このような人物が語る、生前の三条夫人の姿についての追悼の言葉は、前述の信玄夫妻との交流から考えても、信じてもいいのではないかと思われます。また、このような人物が、いくら信玄の正室だとはいえ、心にもないお世辞を述べるようにも思えません。

それに、そうした権力におもねらない人物だからこそ、よけいに信玄も、彼に厚い信頼を寄せたのではないかと思いますし。

 

 快川和尚は、信玄についても天正七年の四月十二日に、彼の七周忌に語ったという、 「天正玄公仏事法語」の中で、こう称賛しています。つまり、信玄公は、色情に荒れる事もなく、また獣のように怒り狂うような事もなく、強い自制心を持ち、また風流な事を好み、和歌や唐詩を詠んだ。また、兵書にも通じ武芸にも優れていた。

 彼が行なった業績は、例え三世が経ってもなす事ができないだろう。

またそれだけではなく、信玄公は天台宗の奥義にも深く通じていた。という称賛をしているのです。

 この言葉は、仏事に際しての言葉であり、多少の誇張はあるだろうと思われるものの、信頼に足りるものだと認識されているようです。それなのに、なぜ三条夫人の葬儀に際しての快川和尚の追悼の言葉は、信用できないものと判断されるのか、納得がいきません。

 

快川和尚の弟子の一人であった南化玄興が開山した、京都の妙心寺隣華院には、天正七年に描かれた、快川和尚の肖像画が所蔵されています。なお、この隣華院には南化玄興の肖像画もあり、また南化玄興は蟠桃院の前田玄以の肖像画や、雑華院の二条昭実夫人(三の丸殿と呼ばれていた、元秀吉の側室で信長の娘。)の肖像画に賛(肖像画に付けられる説明文)をしている。

説三和尚

説三和尚は、尾張国熱田龍珠寺を開山した、南溟紹化和尚に従い、道学を修行し、その法嗣となった碩学だった。諱は恵璨。

説三は、永禄初年に、京都に遊学していた所を信玄に招かれ、まず成就院(後の円光院)の住職となった。

その後に、東光寺に移りそこの住職となっている。

つまり、義信の幽閉から自害までを見守り、その葬儀では導師の一人を努めている。義信の葬儀では、義信の肖像画の「掛真」を掲げる役割を務めた。

このような経緯から、後に三条夫人の深い帰依を受け、それから三条夫人の菩提寺となる成就院の住職となる事になったと考えられる。

 「円光院文書」によると、天正九年(1581)の九月六日付きの、説三が法嗣の明院和尚に与えた付属状があり、これに十三部の付属書籍があり、その中に「碧岩抄 全部十冊、快川和尚跋有り、碧落抄と号す」「法華経抄 全十五冊、快川和尚跋有り」という二部(二種)の書籍が含まれていた。

快川がこれらの書籍を弟子達の講義に使っていたようである。

この「円光院文書」の中に納められている、この説三の付属状だが。

この説三の付属状を見ると、快川が晩年の天正九年までに、これらの書籍を弟子ではない説三に与え、更に数々の支援をしていた事になる。(「武田信玄と快川和尚 横山住雄 戎光祥出版」)

 

説三は、永禄十年の義信の葬儀に次いで、元亀元年の三条夫人の葬儀の時にも、 導師を務めた。

また、信玄の葬儀でも導師を務めている。説三は三条夫人の葬儀の時に、生前の三条夫人について 、こう追悼の言葉を述べている。「鎖子を閉じ、焼香しながら申し上げます。円光院三条夫人は、およそこの世に、聖なることがなきがごとくに、心を痛ましめ、愁いの思いが多い方であられました。

 夫に仕え、要になる津(みなと)を定め、民心をたばねていかれたのに、船は目的地にむかってなかなか着こうとはしませんでした。それなのに信仰の炎をもやされて、すべての煩悩をなくし、高い悟りの境地に達しておられました。それはあたかも、月は明らかに、花は落ち、風光がごく自然であるように、夫人の人柄を示していたと思います。」

 

 信玄は、元亀元年の朔日に、円光院の茶湯料として、林部の内、ならびに石和の屋敷分、合わせて十八貫を寄付している。更に信玄は、元亀三年六月に、説三和尚のため朝廷に紫衣を奏請、正親町天皇から聴許を得ている。この際、紫衣を聴許に当たり、説三を特別に本山妙心寺の住持にするという、綸旨も与えられている。

紫衣聴許と妙心寺住持の資格を取るため、信玄は合計九十七貫五百文を寄付している。

こうして、説三は元亀三年七月二十八日の、三条夫人の三回忌に紫衣を着て法要を営む事ができた。

寿桂尼

寿桂尼は、権大納言中御門宣胤の娘として生まれる。

公家とはいえ、応仁の乱以降の、当時の荒廃した京の情勢から考えると、三条夫人の家などと同じく、質素な暮らしぶりだったと想像される。

永正元年、駿河国国主の今川氏親との縁談が持ち上がる。

こうして、寿桂尼は永正二年、十五歳か十六歳頃、京の都から遥か駿河国へと嫁いでいった。嫁ぐに際し、父の宣胤は「嫁ぐ」という字が彫られた印判を、娘の寿桂尼に手渡している。 おそらく、二度と娘と再会する事はない可能性も念頭に置いた、宣胤の父親としての気持ちからなのだろう。なお印判のこの字は、歴史作家永井路子氏の指摘により、「詩経」の周南という地方の漢詩の一つとして収録されている、この漢詩の一節から、そのまま、漢文の「歸ぐ」という字として、採られていたことがわかった。

 

 桃之夭夭  桃の夭夭たる    灼灼其華  灼灼たり其の華  之子于歸  この子ここに歸がば   宜其室家  其の室家に宜しからん  

桃之夭夭  桃の夭夭たる    有粉其實  粉(ふん)たり其の實   

之子于歸  この子ここに歸がば   宜其家室  其の家室に宜しからん    桃之夭夭  桃の夭夭たる    其葉蓁蓁  其の葉蓁蓁たり   

之子于歸  この子ここに歸がば    宜其家人  其の家人に宜しからん   

 

 

このように、嫁ぐ娘を祝う歌だそうです。寿桂尼の父の中御門宣胤の学識が偲ばれます。 また、この結婚も基本的には両家の利害による考えられた、政略的な結婚ではあるのでしょうが、それでも遥か遠くの駿河国に嫁ぐ娘には、幸せになってもらいたいという、宣胤の父親としての気持ちも、 伝わってくる由来だと思います。 

なお寿桂尼の夫となる今川氏親は、当時三十五歳、彼女とは十五歳近く年が離れていた。

氏親の母の北川殿は、伊勢盛定の娘で北条早雲の妹だった。

彼女は京都に上洛していた今川義忠に見初められ、彼の正室となり、駿河国にやって来た。 おそらく寿桂尼は、この北川殿から武家の正室としての心得や、役割などを指導されたのだろう。

なお、今川家、特に今川氏親は、文芸にも深い関心を寄せていた。

また、彼の曽祖父今川範忠は文化人大名として知られており、寿桂尼の父の中御門宣胤は、若い頃に彼から「万葉葉」の秘事口伝を受けていたのであった。京都の公卿の姫君である寿桂尼が、駿河国国主の今川氏親の許に嫁ぐ事になったのは、寿桂尼達側は生活の安定を計るため、そして今川氏親達は、公家の姫を正室に迎える事で、今川家に箔を付ける、という双方のメリットが一致していた。

 

 

他にも、今川氏親の姉が正親町三条実望に嫁いでいる事などからも、きっかけが生まれたのだと思われる。

また、当時の駿河には、多くの公家が下向してきていた。当時の駿河国の支配は、安定しており、寿桂尼の今川氏親の正室としての生活は、まずは順調な滑り出しだったと思われる。

彼女は永正十年に長男の氏輝、次に次男の彦五郎を生んだ。

そして永正十六年に、承芳(後の義元)を生む。

更にその後、娘の瑞渓院を生む。瑞渓院は、後に北条氏康の正室となった。

しかし、数年後に、夫の氏親が病気で倒れ、約十年の間、中風で寝たきりであったようである。 しかし、頭の働きはしっかりしていたらしい。

この間、寿桂尼は領国経営や、自分亡き後の息子の氏輝の補佐などについても夫から教わり、この間夫の氏親を補佐していたと思われる。

長い間病床に臥せっていた氏親は、大永六年の六月二十三日に死去した。 その前に、分国法の「今川仮名目録」も、制定された。

これには寿桂尼も関わっていたのではないか?と考えられている。

 

 

ここから、寿桂尼が息子氏輝の補佐役として、政務に携わっていくようになるのである。まず寿桂尼は、氏親の死後、出家した。

そして大永六年の九月二十二日から、寿桂尼がまだ十四歳の氏輝の補佐として、息子に代わり領国経営に関する、諸々の文書を発給する事になった。 享禄五年から、氏輝が継続的に文書を発給する事ができるようになるまでの六年間、母親の寿桂尼が実質的に今川家の政務を執っていた事になる。彼女が「女戦国大名」と呼ばれるのは、このためだ。

当時こうした形で、女性が直接政務に携わる事は、非常に珍しい。

当時、女性は花押を持てない事になっていたため、この時に使われたのが、寿桂尼が嫁ぐ時に父から渡された、あの印判だった。

そして氏輝自身が、ようやく自分自身で政務をとることができるようになったため、寿桂尼も安心して、再び夫の菩提を弔う日々に戻ったのだろう。

しかし彼女の息子の氏輝と彦五郎が、天文五年の三月十七日の同日、謎の死を遂げる。このような、突然の氏輝の死であったため、家督は同母の兄弟である、寿桂尼の息子で当時善徳寺で僧侶になっていた栴岳承芳に譲るとは遺言されていなかったと推定され、寿桂尼は当時の承芳の教育係でもあった、臨済寺の僧侶の雪斎ら協力者と共に、幕府へ承芳への家督相続を願い出ている。

 

そして氏輝自身が、ようやく自分自身で政務をとることができるようになったため、寿桂尼も安心して、再び夫の菩提を弔う日々に戻ったのだろう。 しかし彼女の息子の氏輝と彦五郎が、天文五年の三月十七日の同日に、謎の死を遂げる。 突然の氏輝の死であったため、家督は同母の兄弟である、寿桂尼の息子で当時善徳寺で僧侶になっていた栴岳承芳に譲るとは遺言されていなかったと推定され、寿桂尼は当時の承芳の教育係でもあった、臨済寺の僧侶の雪斎ら協力者と共に、幕府へ承芳への家督相続を願い出ている。側室の福島氏の娘が生んだ、これも同じく僧門に入っていた、玄広恵探というライバルがいたからである。

当時、生母の身分の違いは大きく、正室の子供か側室の子供かが、家督継承に大きな影響を及ぼしていた。

通常なら兄とはいえ、側室の息子である恵探よりも、正室寿桂尼の子である承芳が継ぐ事になるはずだった。

しかし、恵探は側室の息子とはいえ、彼の背後の福島氏は、今川家の重臣として、かなりの勢力を誇っており、その存在は無視できないものがあったからである。 幕府は五月三日付けで、幕府からの承認を示す「大館晴光書状」を出している。 しかし、どうやらこの書状は、福島氏側によって、取り上げられてしまったようである。

また、すでにこの頃、承芳と恵探による家督争いの戦いの、「花倉の乱」が勃発していた。なお、この時に甲斐国の武田信虎は、義元の方を支持したとされ、これにより、今まで戦っていた関係であった武田家に対する、寿桂尼の印象が良くなったとされる。

 

結局、家督争いは大半の今川家重臣の支持を得ていた、義元側の勝利に終わり、六月十日に恵探は普門寺で自害した。

こうして、晴れて義元は正式に今川家の家督を継ぐ事ができた。 寿桂尼も、胸を撫で下ろした事だろう。

そして、これから、寿桂尼や義元などの斡旋により、天文五年の七月、武田信虎の嫡男武田晴信への、三条公頼の娘の三条夫人の輿入れが行われるのである。義元が正式に家督を継承後、義元には雪斎という、有能な補佐役が付いたため、寿桂尼が直接政務に携わる時期は、終了した。

今川氏親の姉が、三条家の分家である正親町三条家に嫁いでいる事などもあり、もしかしたら、寿桂尼は以前から三条夫人の話を、聞いた事があるのかもしれない。

お互いに、公家から武家に嫁いだ女性として、親近感や仲間意識のようなものを、感じていたのではないだろうか?

特に、三条夫人からすれば、公家の姫ながら今や押しも押されぬ、今川家当主義元の母として、そして一時は「女戦国大名」として、直接政務に携わった事すらある、寿桂尼は、先輩のような存在であると共に、尊敬の対象だったのではないだろうか? 

なお、三条夫人が甲斐国に輿入れするに当たり、途中の道中、おそらく駿河国を通過する時に、今川館に数日滞在した事と思われる。

これ以降も、今川家と武田家の親交は深まり、天文六年の二月十日には、晴信の姉の定恵院が義元の正室として嫁ぎ、両家の間に正式に同盟が結ばれた。

 

 天文十九年の六月二日に定恵院が死去すると、再び同盟を強化するため、天文二十一年の一月二十七日にも、寿桂尼の孫今川氏真と同年齢の、武田義信の許に、今川氏真の妹の嶺松院が嫁いでいる。

従兄妹同士の結婚であった。

今川は北条や武田と同盟を結び、駿府は、今川義元の治世の下、京都の公家達の頻繁な下向などもあり、豊かな文化も花開き、繁栄を謳歌した。寿桂尼も、今川家中からは敬われ、この平和と繁栄に満足していた事だろう。この頃彼女は娘の瑞渓院の息子で孫の北条氏規と湯治、また今川館で十烓香と呼ばれる、香を楽しんだ。

度々甲府などに下向し、大名達に和歌の指導をしていた冷泉為和の冷泉家は和歌、三条家は笛、飛鳥井家は蹴鞠、三条西家は香道というように、彼ら公家は各家業を持っていた。

寿桂尼の中御門家は、儀式典礼に精通した家だった。

彼女の母方の家の甘露寺家は、三条西家とも婚姻関係があることから、こういう関係から、寿桂尼も特にお香に親しんでいたのかもしれない。

しかし、戦国の情勢は激しく動き、永禄三年の桶狭間の戦いで、義元が敗死した。寿桂尼にとって、大きな衝撃であった。

そして同盟関係にあった武田家では、駿河侵攻を巡り、信玄と義信が対立。更に謀反を起こした廉で、義信は東光寺に幽閉され、二年後に自害。今川家の方では、義元の死後、息子の氏真が武将としての素質に欠け、今川家の衰退は急速に進む事になった。

今川家の衰退を目の当たりにしつつ、寿桂尼は永禄十一年の三月二十四日に死去。 享年七十八歳程。

死去に際し、寿桂尼は、墓を今川館の東北の方角に建てよと遺言。

ここは今川家にとって鬼門に当たり、死しても今川を守っていくという寿桂尼の強い意志が感じられる。

菩提寺は沓谷の竜雲寺永禄十一年の十二月十三日、信玄の駿河侵攻により、駿府の町は焼き払われた。

 

 

臨済寺
臨済寺
臨済寺の説明看板
臨済寺の説明看板
臨済寺の庭園説明看板
臨済寺の庭園説明看板

細川晴元

永正十一年(1514)―永禄六年。

管領となり、三条夫人の姉と結婚した.細川京兆家の細川晴元ですが、なかなか彼も波乱万丈、転変極まる生涯を送ったようです。

正室は、三条公頼の長女。彼女の死去後と思われるが、六角定頼の娘が後妻になる。三条夫人の姉との間には、赤松某に嫁いだ長女、有馬某に嫁いだ次女がいる。細川晴元の後を継ぐ、細川昭元は、六角定頼の娘の生んだ息子。

 

永正十一年に、阿波国の細川澄元の子として生まれる。

幼名は聡明丸。そして澄元と細川京兆家の家督を争い、澄元を追った細川高国が滅亡したので、阿波から迎え入れられ、幼くして家督を継いだ。

永正十七年に、父の細川澄元が死去し、その息子の聡明丸(晴元)が継いだ。大永七年に、三好勝長・元長連合軍の活躍により、「桂川原の戦い」で父の時代からの敵である、細川高国に勝利。

そして高国を近江へ追うことに成功した彼らは、足利義維を将軍として「堺公方府」を創設した。とはいえ、この時の晴元はまだ少年だったので、実権は周囲の家臣達が握っていたと思われる。

 

天文二年(一五三三)の二十歳頃に、当時十六歳くらいと思われる、三条公頼の長女の姫君と結婚。

しかし、当時は京都の情勢は、まさに動乱の様相を呈していた。

いや、そんな時だからこそ、晴元は朝廷との強い繋がりを求め、権門である、清華七家の一つ転法輪三条家から正室を求めたと思われる。

また、家門に重みを付けるという目的もあったのだろう。

この頃、京では法華一揆が勢力を振るっていた。

法華一揆とはいっても、彼らはれっきとした、武力を有した集団であった。 

 

事の始まりは、享禄五年の五月に、聡明丸(細川晴元)の家臣木沢長政が旧主の畠山義堯・三好勝宗らに攻められ、細川晴元に救援を求めた事からである。晴元側は、とても自分達の武力だけでは対抗できないとの判断を下し、本願寺の門主証如上人に、一向一揆の出兵要請を求めた。そして、その勢いは凄まじく、畠山義堯・三好長慶の父三好元長を自害に追い込む事に成功している。

 

しかし、一度動き始めた一向一揆の勢いは留まらず、三好元長が妻と千熊丸を阿波に逃れさせ、一族ことごとく自害した六月二十日から、約一ヵ月後の七月十七日には、雁金屋や橘屋ら一部の有徳人を中心とする真宗門徒に率いられた奈良の一揆は興福寺を襲撃し、僧兵勢力と戦い、菩提院ら十七宇の坊舎を焼打ちするなど、一揆指導層の戦闘意欲が旺盛で、証如でさえ、制御不能となっていく。

そしてこの一揆の嵐は大和から摂・河内・和泉と機内全域に拡大し、各地で国衆や荘園領主に対する農民闘争に発展した。

結局、細川晴元側は、日蓮宗の法華一揆の軍事力を利用し、一向一揆を鎮圧させた。

 

このような情勢の中での輿入れであるから、妹の如春尼の時と同様、三条夫人の姉も、厳重な警護の下、晴元の許へ輿入れしたのかもしれない。天文五年の九月二十四日には、晴元は入京を果たし、名実共に幕府の執政となり、管領に相当する政治的地位を継承する。

天文六年の八月には、右京大夫に任ぜられ、将軍足利義晴の偏諱を受けて、細川晴元と名乗る。これ以降、晴元は「細川右京兆」と呼ばれる事になる。公卿ではないとはいえ、三条夫人の姉は、当代一の権力者の許へと輿入れしたのである。

おそらく、結婚してから、一・二年後くらいに、長女が、そしてそんなに間を置かず、次女が誕生したものと考えられる。

しかし、このように妻との間に、二人の子供にも恵まれた晴元だったが、穏やかな家族などとの時間を過ごすまもなく、機内の情勢は間断なく揺れ動く。細川晴元の家老であった三好長慶が、同族の三好政長と対立するのである。当然の事ながら、幕府は混乱に陥った。

そして、天文十五年には晴元自身が、将軍足利義晴と対立する事になるのである。十一月には、義晴は細川晴元と戦うため、北白川に築城。その後将軍職を辞め、十二月二十日には、義晴の息子で悲劇の剣豪将軍として有名な、足利義輝が将軍宣下を受ける。

 

天文十七年には、ついに三好長慶が晴元に叛く。

続く翌年の六月二十四日には、三好長慶軍と細川晴元・三次政長軍との間に、江口の戦いが勃発。

細川側の軍の三好政長が敗死し、ついに晴元政権は崩壊する。前将軍の足利義晴と晴元は、近江へ逃走。そして翌年の五月四日には、の中で義晴は没する。彼の遺志を継ぎ、晴元は義輝と中尾城に三好長慶と戦う。しかし、攻め落とされ、再び義輝と共に近江に逃亡。

 そしてこの年に、六角定頼を母に持つ、晴元の嫡男である細川昭元が誕生していることから考え、おそらくこの天文十七年前後に、三条家から迎えた、三条公頼の長女の細川晴元夫人とは死別したと思われます。

 

このように、相変わらず細川京兆家を取り巻く情勢が騒然とした年の前後に、おそらく正室の細川晴元夫人は死去していたと考えられます。

まだ、二十代後半くらいであったと思われます。

数年間、苦労を共にしたと思われるこの正室の早過ぎる死に、晴元も落胆したかもしれません。

そしてこの後に、おそらく晴元はこの六角定頼の娘を、新たに正室として迎えたのでしょう。

しかし、相変わらず、この晴元の三好一派と戦っては破れ、逃走などを繰り返し、転々とした日々を送っています。

また、三条夫人の姉の細川晴元夫人の実家は実家で、天文二十年の九月には、三条公頼が周防で大内義隆重臣の陶隆房の起こした謀反の「大寧寺の変」に巻き込まれ、その地で命を落とすという大事件が起きており。更に子供は娘のみであった三条家は、これにより、一時断絶の危機にまで陥っていますし。これらの状況から、夫と早くに死別、また夫の晴元とは別の場所に埋葬されたと思われる彼女の菩提寺と墓所の場所は、杳として知れなくなってしまったのでしょう。

 

 それにしても、 このような管領の晴元の正室として、なかなか気苦労の多い生活だったと思われます。

天文二十一年には、晴元は若狭に逃走している。

そしてこの間に、後妻の六角定頼の娘との間の息子の昭元も、人質に取られてしまっていた。

翌年も戦闘。そして、五年後の永禄元年の五月にも、義輝と共に入京を目指し、三好長慶軍と戦っている。

しかし、この頃にはすでに京では晴元の評判は下がり、人心は離れていったようである。義輝も三好側と和睦を結び、京都に帰還。

 

だが、ちょうどこの前年、三条公頼の三女の如春尼が、細川晴元の猶子になり、次いで六角定頼の猶子になり、本願寺証如の息子の茶々(顕如)の許へ、厳重な警護の下に嫁いでいる。

元々、この如春尼と茶々の婚約は、まだ如春尼が晴元の猶子であった時に、晴元側から申し込まれたものである。    

そして最終的に、この如春尼が晴元の猶子から、六角定頼の猶子にとされ、更に定頼の許から、猶子として本願寺に嫁いでいく事に関して、彼らの間で、何らかの交換条件が交わされていた可能性があると思われる。如春尼が嫁いだ本願寺を通し、六角側の晴元支援。

また、最初に本願寺に結婚を申し込んだのは、晴元であり、つまりまだ如春尼が晴元の猶子であった時であり。

そしてこの時にはこれまでの晴元と本願寺との因縁から本願寺側が迷惑であると難色を示していた事などから、晴元の猶子としでてはなく、定頼の猶子として嫁ぐという形で、本願寺側の心理的抵抗を少なくするという、ワンクッションを置くという目的もあつたのでは?と、想像を巡らせてみました。

いずれにせよ、永禄元年にも、再び足利義輝・細川晴元と、三好長慶側との間で、戦いが繰り広げられている事から、晴元が何とか京での勢力挽回を試み、そのためにかつて敵対していた本願寺の支援を欲していた事は明らかだと思われる。

この後の、晴元の消息は、途絶えますが、没年までの最後の五・六年間は、京都の天龍寺に逃走したり、また龍安寺にいたとかいう説もあるようです。

 

結局、三好長慶によって摂津の芥川城に幽閉、そして永禄四年に足利義輝が三好長慶に晴元との和睦を勧める。同年の五月に、晴元は摂津富田の普門寺に入れられ隠棲。二年後の永禄六年の三月に、五十歳で波乱の生涯を閉じる。

 

こうして見ると、彼も最後まで相当に波乱万丈の生涯でしたね。

また、三好長慶との戦い、その他畿内の有力国人達との戦いに終始した人生でもありますね。

なお、晴元とはこのように幕府の要職にあり、当時の重要人物の一人であったにも関わらず、何かと明らかになっていない点が多い人物ですが。ですが彼の菩提寺の普門寺にある、おそらく細川晴元が自分の生涯の事跡を彫って埋めたと思われる、「瘞石書聖典」と彫られた、小さな石柱があるらしいですが、富田の重要文化財ということで、いたずらに発掘もできないそうで、残念。