武田一族二

武田信虎には側室が多く、娘達も多い訳ですが。

でも、このサイトの方針により、信虎の娘達の中でここで紹介するのは、信虎の主要な他国との婚姻政策を担った三人の娘達及び、武田家重臣の穴山信友の正室となっており、更に穴山梅雪の母でもある、南松院にさせてもらいます。

定恵院

武 田 信 虎 と 正 室 大 井 夫 人 の 長 女 。

武 田 信 玄 の同母 姉 で 、 今 川 義 元 正室 。

 永 正 十 六 年 ( 一 五 一 九)に 、 生 れ る 。

 

そ れ ま で 甲 駿 の 国 境 地 帯 を 巡 り 、 戦 い を 繰 り 広 げ て い た 武 田 家 と今 川 家 が 、同盟 を 結 ぶ 事 に な り 、 天 文 六 年 の 二 月 十 日 に 、 駿 河 の 今 川義 元 の 許 に 、 輿 入 れ し た 。

 

その前 段 階 と し て 、 天 文 五 年 に 、 今 川 家 で 今 川 氏 親 亡 き 後 、 彼 の 正 室 の寿 桂 尼 の 息 子 で 当 時 仏 門 に 入 っ て い た 、 栴 岳 承 芳 と 、 側 室 の 、 今 川 家の 重 臣 福 島 氏 の 娘 の 子 で あり、こ れ も同じ く 、 当 時 仏 門 に 入 っ て い た 、 玄広 恵 探 との 間 に 家 督 争 い の「花倉の 乱」が 勃 発 し。

し か し 寿 桂 尼 が 雪斎 の 助 け を 得 て 、 こ の 戦 い を 制 し 、 無 事 彼 女 の 息 子 栴 岳 承 芳 が 、 今 川家 の 家 督 を 継 ぐ 事 に な っ た 。

 そ の 際 に 、 そ れ ま で 今 川 と 争 っ て い た 関 係 の 、 武 田 信 虎 が 承 芳 の 方を支 持 し た た め 、 こ れ に 寿 桂 尼 側 の 心 証 が 良 く な り 、 当 時 公 家 の 娘 とし て 朝 廷 ・ 公 家 間 の 人 脈 が あ っ た と 思 わ れ る 彼 女 に よ る 、 信 虎 の 嫡 男晴 信 の 正 室 へ 、 京 都 の名門 清 華 七 家 の 内 の 一 つ 、 転 法 輪三条 公 頼 の 二

女 の三条 夫 人 の 斡 旋 へ と 繋 が っ て い っ た 。

そ し て 、 こ れ に 続 い て 、 この 信 虎 の 長 女 と 義 元 と の 婚 姻 で あ る 。そ し て 翌 年 の 天 文 七 年 に は 、 定 恵 院 は 、 嫡 男 の 五 郎 ( 氏 真) を 生 ん だ 。

ま た 、 ち ょ う ど 時 を同じ く し て 、 こ の 頃 甲 府 で も 晴 信 の 妻 の三条 夫 人が 、 嫡 男 太 郎 ( 義 信)を 生 ん だ 。

 

こ の よ う に 当 時 の 武 田 家 に は 慶 事 が 相 次 ぎ 、 武 田 信 虎 は 得 意 の 絶頂 に あ っ た 事 だ と 思 わ れ る 。

そ の 彼 も 、 ま さ か こ の 数 年 後 に 、 自 分 の息 子 晴 信 に よ り 、 駿 河 に 追 放 さ れ る と は 、 予 想 だ に し て い な か っ た 事

だ ろ う 。武 田 信 虎 は 、 天 文 十 年 の 五 月 に 、 息 子 の 晴 信 と 共 に 、 信 濃 国 小県郡に 出 兵 し て 、 そ れ に 勝 利 し て 帰 還 し た 後 の 、 六 月 中 旬 に 、 娘 夫 婦 を 訪ね て 、 駿 河 に 旅 立 っ た 。

 

し か し 、 そ の 帰 途 、 晴 信 は 甲 斐 南 部 の 富 士 川 沿 い の 地 域 の 河 内 境 に足 軽 を 出 し 、 父 信 虎 を 足 止 め し て し ま っ た 。 こ れ に よ り 、 信 虎 は 甲 府に 戻 れ な く な っ て し ま う 。

 息 子 晴 信 に よ る 、 父 信 虎 の 実 質 的 な 永 久 追 放 で あ っ た 。 や む な く 、信 虎 は そ の ま ま 駿 河 の 義 元 の 許 に 留 ま る 事 に な っ た 。父 と 弟 の 諍 い と こ の よ う な 成 り 行 き に 、 心 を 痛 め な が ら も 、 お そ らく 、 そ の 後 は 娘 で あ る 定 恵 院 が 、 何 か と 父 信 虎 の 世 話 を し た の だ ろ う 。

当 時 の 駿 河 は 、 英 明 な 国 主 義 元 と 良 き 補 佐 役 の 雪 斎 の 許 、 公 卿 達 の往 来 も 頻 繁 で あ り 、 優 雅 な 京 文 化 が 花 開 い て い た 。

 こ の よ う な 生 活 の 中 、 定 恵 院 は 、 天 文 十 九 年 の 六 月 二 日 に 、三十 二歳 で 死 去 し た 。

彼 女 の 葬 儀 は 、 臨 斎 寺 の 僧 侶 で も あ っ た 、 雪 斎 が 執 り行なっている。

 

南松院

南松院は、武田信玄の姉。武田信虎の二女。

信虎の正室の大井夫人の娘かは、不明。

穴山信友正室で穴山梅雪の母。

永正十七年(1520)頃の生まれか。

「甲斐国志」は、側室の内藤氏が母としている。

 

天文八年頃、河内領一帯を支配していた、穴山信友に嫁ぐ。

 天文十年に、息子の勝千代(穴山信君(梅雪))が誕生。

穴山信友は、この男児の誕生がよほど嬉しかったらしく、翌年の天文十一年の一月一日には、勝千代の無病息災を祈り、下山の一之宮、二之宮に田畑を寄進している。

更に、その年の十二月には、芝川町内房にある富士浅間神社の社殿を勝千代の名前で造営し、嫡男の幸せを祈願している。

息子の穴山信君は、文人的な人物で、茶道にも造詣が深かったという。これは、母の南松院の影響や、また茶道に関しては三条夫人や見性院の影響があったのかもしれない。

下山の居館には、京都の土石を運んで作られた庭がある。

 

この南松院は、恵林寺にも住した、京都の妙心寺の天桂玄長の肖像画に対する讃によると、容姿は馬郎(仙女)のように美しく、眼は達磨大師の弟子の総持尼のように聡明そのものだったという。

つまり、信仰心が篤く、また聡明でかつ美しい 女性だったというのである。また天竜寺の策彦周良の「葵庵法号記」によると、彼が信玄の懇願で弘治二年の冬に、恵林寺の住山し、翌年に帰京するに当たり甲駿街道を通り、途中下山に宿泊した。

そして穴山信君邸を訪問した際に、正室の南松院から法と雅号を望まれ、「葵庵理誠」という法号を授けた。

なお、この弘治二・三年頃に、南松院の息子の穴山信君に、三条夫人の次女の見性院が嫁いだと考えられる。

この頃の南松院は、すでに嫡男の穴山信君の正室には、信玄と正室の三条夫人の次女の見性院を迎える事ができ、これで穴山家も安泰と安堵していたのではないだろうか。

こうしてかねてからの念願叶い、仏道に勤しんでいたと思われる南松院は、永禄九年(一五六六)の四月二十五日に死去。

おそらく、四十歳前後だったと思われる。

比較的若くして、亡くなったようである。

 

なお、永禄九年に南松院の病気が悪化した際に、彼女は辞世の句を詠み、それが快川和尚の許に届けられ、彼は次の一喝を作って和韻した。

「摩耶、利天を認めず、薫風に袖を掃いて那辺にか去る、院門にこの長松樹木有り、夜半に愁を告げて来たり上る鵑(「頌文雑句」)。

これは、南松院が当時、恵林寺にいた快川和尚と息子の信君同様に、知己となっていたためと思われる。

同年の十二月に、追慕像として息子の穴山信君が、現在菩提寺の南松院に所蔵されている母親の追慕像を描かせ、天桂玄長の讃を求めている。薄青の頭巾を被り、袈裟の上から緑色の絡子を掛け、右手に数珠を下げた尼姿の肖像画は、涼しげな切れ長の目をして美しい。

南松院は美しい人であった事がわかる。

この時代の肖像画の様式として、緑青色の上畳に腰掛けている。

そして絵の上の方には、大井夫人の絵にも描かれている安之玄穏の画讃と同じく、天桂玄長の画讃と思われる文章が、書かれている。

 

この肖像画の作者は不明だが、画法やその岩絵の具の色が、武田信廉が描いた大井夫人の肖像画と似ている事などから、この南松院の肖像画も、武田信廉が描いたのではないかと考えられている。

法号は「南松院殿葵庵理誠大姉」。

この他には遺品として、絶えず離さなかったという、法華経八巻が残されている。南松院は看経仏を身辺に置き、読誦用としてこの経巻を用いていたという。また、おそらく漆塗りに金箔が貼られた品だと思われる、鶴と亀の絵が描かれた、南松院使用の木椀がある。

また、この品と同じような武田家の女性達の遺品としては、他に甲府市御岳町の御岳金桜神社に所蔵されている、大井夫人の遺愛品の「住吉蒔絵手箱」などがある。これは、住吉神社が島に浮かび、松と太鼓橋を配した絵が描かれており、黒漆地に金平蒔や研出蒔などの技法を用いた逸品であり、当時の有力戦国大名の奥方や娘などの女性達の、華やかな暮らし振りが偲ばれる。

 

そして武田家の女性達の中には、夫の信虎の生前に仏門に入った大井夫人、信虎の側室のお西様、更にこの南松院など、仏への信仰心が篤い女性達が多い。名門武田氏の長い歴史の中で育まれた、武田氏の女性達の高い精神性を感じさせる。

また、三条家から嫁いできた三条夫人も、仏への信仰心が篤い女性であり、このような武田氏の女性達の家風の中にも、すんなりと馴染んでいく事ができたと思われる。

 

そしてこのように、領主層である武田信玄や、こうした周囲の婦人達が仏教に対する信仰が熱心であった事など。

こうした元々の精神的土壌が武田家にあった事が、後年に武田信玄が甲府五山を定める事にも、影響していたのではないかと思われます。

禰々御料人

武田信虎の八女。諏訪頼重正室。

大永八年 ( 一 五 二 八)に 、 生 れ る 。

 

おそ ら くこの 禰 々 御 料 人 は 、 武 田 信 玄 の 娘 達 と は 違 い 、 比 較 的 平 穏 な 生涯 を 終 え た 女 性 達 が 多 い 、 武 田 信 虎 の 娘 達 の 中 に あ っ て 、 過 酷 な 側 面も あ っ た 戦 国 時 代 の 政 略 結 婚 の 影 響 を 、 真 っ 向 か ら 受 け た 、 悲 劇 的な女 性 で あ っ た 。

 

天 文 九 年 ( 一 五 四 〇)の 十 一 月 に 、禰々御料人は 長 い 間 争 っ て き た 諏 訪 氏 と の同盟 政 策 と し て 、 信 濃 国 豪 族 の 諏 訪 頼 重 に 正 室 と し て 嫁 ぐ 。

な お 、 こ の 頃 頼 重 に は 、 す で に 妻 で 長 女 諏 訪 御 料 人 の 母 である小 見 氏( 麻 績)が い た が 、 初めから彼 女 は 側 室 として嫁いでおり、 こ れ は 重 婚 で は な い 。

二 年 後 の 天 文 十 一 年 ( 一 五 四 二)の 四 月 四 日 に は 、 頼 重 の 嫡 男 寅 王を 生 む 。

待 望 の 嫡 男 誕 生 を 大 喜 び し た 頼 重 は 、 寅 王 誕 生 か ら 二 ヵ 月 後 の 、 六月 十 一 日 の 宮 う つ し の 祭 り の 日 に 、 禰 々 御 料 人 と 寅 王 を 伴 い 、 お 宮 参り を し 、 諏 訪上社 に 時 毛 の 馬 と 太 刀 を 奉納し て 祝 っ て い る 。

し か し 、 彼 女 の こ の よ う な 平 穏 な 日 々 は 、 束 の 間 の 事 で あ っ た 。 しか も 、 そ れ は 彼 女 の 兄 の 晴 信 に よ っ て 、不意 に 破 ら れ た の で あ る 。

 

天 文 十 年 ( 一 五 四 一)の六月に 、 武 田 信 虎 を 駿 河 に 追 放 す る と 、 晴 信 は 直ち に 諏 訪 対 策 を 侵 攻 路 線 に 転 換 し 、 天文十一年 の 七 月 に 桑 原 城 に 篭 城 する が 、晴 信 に 敗 れ た 諏 訪 頼 重 は 、 そ の ま ま 甲 府 に 連 行 さ れ 、 東 光 寺 で 自害 。

息子誕生からほぼ一年と半年後の、この夫の死である。

こ の 時 の 禰 々 御 料 人 の 衝 撃 と 悲 し み は 、 大 き か っ た で あ ろ う 。そ の 後 、 夫 を 失 っ た 彼 女 は 、 や む な く 、 生 れ た ば か り の 息 子 寅 王 を伴 い 、 甲 府 の 兄 の 許 に 戻 る 。 

し か し 、 そ の 後 も同年 の 九 月 に 、 以 前 から 諏 訪 氏 に 連 な る 一 族 で あ り な が ら 、頼 重 と 対 立 し 、 諏 訪 総 領 の 座 を狙 っ て い た 、 高 遠 頼 継 挙 兵 の 報 を 聞 い た 晴 信 に よ り 、 ま だ 生 後 間 も ない 寅 王 は 、 諏 訪 頼 重 の 正 当 な 後 継 者 ・ 武 田 軍 の 旗 印 と し て 合 戦 場 に 連れ て 行 か れ た 。

 

こ の よ う に 、 生 ま れ て 間 も な い の に 、 す で に 政 略 の 道 具 と し て 担 ぎ出 さ れ る 幼 い 息 子 の 姿 な ど 、ま だ 夫 の 死 の 衝 撃 か ら も 立 ち 直 っ て いな か っ た と 思 わ れ る 禰 々 御 料 人 だが。おそらく彼女はこ の よ う な 相 次 ぐ 心 労 に 倒 れ 、 天文 十 二 年 ( 一 五 四三)の 正 月 十 九 日 に 、 わ ず か 十 六 歳 で 死 去 し て し まっ た 。法名「玉 芳 妙 貫 大 禅 尼」 。

な お 、 諏訪頼重の遺児の寅王はこ の 合 戦 では大 切 な旗 印 と し て 、 一 応 武 田 軍 に 大 切 に 保 護 され て い た ら し く 、 こ の 時 に 命 は 落 と さ な か っ た と は い え 、 こ れ 以 降 の消息は知れない。おそらく、数年後に夭折したのではないかと思われる。

 

武田信親

 

天文十年(1541)―天正十年(1582)。 武田信玄と三条夫人の次男。

生まれつき盲目だったという説、そして後に病気で盲目になったという説がある。次男の信親が盲目だと知った時、両親は悲しみとこの子供への不憫さを覚えた事だろう。三条夫人も、この息子を一際気にかけていた事と思われる。 信親は盲目のため、半聖半俗として暮らす事となり、龍芳(宝)と名を改め、信玄は信親の養育を長延寺実了に託した。

彼は「御聖道様」と呼ばれるようになり、武田館の裏手にある、叔父武田信廉邸の北の日影という場所に邸を与えられた。

その後彼は信濃国の豪族海野幸義の養子に入った。 やがて信親は、海野幸義の娘と結婚した。

信親は天正十年(1582)の三月、武田家滅亡の時に、栄順上人に匿われていた 入明寺の境内で自害した。

入明寺は、村上天皇の子孫の六条有成が得度し、浄閑と称し、長享元年(1487年)に創建した寺。

なお、信親が後に盲目になった説として、弘治二年の九月に永井にある瑜伽寺の薬師如来に奉納された信玄の眼病平癒の願文がある。

信玄はこの願文の中で、次男の聖導が弘治二年の九月に疱瘡にかかってしまった。もしも息子の両目の視力が元に戻るなら、飽きる程多くの年貢を当寺に寄進する、もし両目の視力が戻らず、片目の視力だけが残された場合は、禅寺に入れて僧侶とする、もしも両目とも見えなくなってしまったなら、その時は自分の右目と交換してもいいと祈願しているのである。

信玄の息子を思う気持ちが、よく伝わって来る願文である。

そしてまた、同様に母の三条夫人も、共に祈った事だろう。

武田信之

天文二十三年―永禄七年。 武田信玄と三条夫人の三男。

西保家の養子に入り、西保三郎になったようである。

10歳で死去したとされる。 それから信之の生年についてだが、上野晴朗氏は信之の生年は、天文十一年頃ではないかと推定している。

確かに、他の子供達と比べると年の差が開き過ぎているように思われる。

この生没年も、確実という程でもないようである。

いずれにしろ、この信玄の三男信之が早世したのは、まちがいないようである。

黄梅院

富士御室浅間神社
富士御室浅間神社
早雲寺
早雲寺

天文十二年(1543)―永禄十二年(1569)。 武田信玄と三条夫人の長女。黄梅院は1543年、信玄と三条夫人の長女として生まれた。初めての女児とあって、信玄も長女が生まれた時、特に可愛く思ったのではないだろうか? 黄梅院は甲・駿・相の三国同盟のため、天文二十二年の冬に、天文二十三年に北条氏康の長男北条新九郎(北条氏政)と結婚させる事とし、その約束として初めに氏康の方から正月十七日、誓句が届けられ、信玄からも二月二十一日に誓句を送り、婚約が成立した。

この前に、黄梅院の兄義信が今川義元の娘でいとこに当たる嶺松院と結婚していた。 天文十九年に最初に駿河に嫁いでいた信玄の姉定恵院が死去したため、再び甲駿同盟を強化するためである。

また、黄梅院より一足早く、天文二十三年の七月に、義元の長男今川氏真の許に、北条氏康の娘早川殿が嫁いでいる。

 

 しかし、嫁ぐ時が来てもまだ黄梅院は十二歳の幼さであった。

母親の三条夫人からすれば、まだまだとても結婚適齢期とは思い難く、喜びよりも不安や悲しみの方が勝っていたのではないだろうか?

しかし、容赦なく娘との別れはやって来る。 天文二十三年の十二月、黄梅院は相模に嫁いでいった。その様子は、三千騎が付き従い、金覆輪の鞍を付けた馬に十二丁の輿、四十二の長持、実に総勢一万人の輿入れ行列であった。当時の輿入れ行列は、他国へ自国の国力を誇示するデモンストレーションの意味を含んでいた。

だがその他にも、やはり父信玄の黄梅院への愛情も感じられる。

黄梅院は早くも弘治元年(1555)には懐妊し、十一月八日、男児を出産した。この報を聞いた信玄は大喜びであったという。

しかし、まだ母体が未熟なせいもあったのか、この息子は間もなく夭折してしまった。信玄も三条夫人も悲しみ落胆し、また娘の事も気がかりであっただろう。 黄梅院は二年後の弘治二年(1557)に再び懐妊した。

信玄は今度こそは娘の無事な出産を願い、この年の十一月十九日、富士御室浅間神社に直筆の願文をしたため、黄梅院の安産を願った。

三条夫人も同じ気持ちであっただろう。

この願文の中で信玄は、 「もし娘が母子共に無事で出産なれば、来年の六月から船津の関所を開放する」と約束している。

 

 

この時の子は後の芳桂院(千葉邦胤正室)という娘として、無事に誕生したようである。その後も黄梅院は長男氏直、次男氏房、三男直重を次々に出産し、夫氏政との夫婦仲はすこぶる良好であった。

信玄は更に永禄九年の五月の黄梅院懐妊の時にも、「出産は六、七月頃かと思われるので、百人の僧侶を集めて法華経を読誦させ安産の祈願をして欲しい。神馬を寄進する」と再び祈願状を書いた。

そして続いて六月十六日にも「母子共に無事ならば、来年から黒駒の関所を開放する」と祈願している。

この時に誕生したのが、三男直重であった。

嫁がせる時には心配したものの、多くの子供達に恵まれて、夫と幸福な結婚生活を送っている娘の様子に、母親の三条夫人も安心した事だろう。

しかし、両親からは愛され夫や子供達と幸せな生活を送っていた黄梅院だが、思わぬ悲劇に見舞われる事となっていく。

 

 

永禄十一年の十二月に、信玄は駿河を侵攻し、駿府城は陥落、今川氏真の正室の早川殿は裸足で逃げ出さなければならない有様であったという。  この信玄の一方的な同盟破棄を怒った北条氏康は信玄の娘である黄梅院を氏政と離縁させ、甲府に送り返してしまった。

なお、父信玄と駿河侵攻を巡り対立し、謀反を起こした黄梅院の兄義信は。前年の永禄十年の十月十九日に、幽閉先の東光寺で自ら命を断っていた。

愛する夫や子供達と無理やり引き離された黄梅院は悲しみに暮れて甲府に帰ってきた。 黄梅院は悲しみから安之玄穏を導師として、出家してしまった。 それからわずか半年の後、黄梅院は永禄十二年六月十七日、失意の中、二十七歳でこの世を去ってしまった。

 「法号 黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」。

「北条家過去帳」には、黄梅院は「相州太主氏政御前様」と記されており、法号と命日が記されている。

なお「北条家並家臣過去帳抜帳」によると、永禄十二年の黄梅院の命日に、三人の人間が、高野山高院室に黄梅院の菩提弔いを依頼している。

おそらく黄梅院の輿入れの際に、武田家から付き従ってきた侍女で、養育係と思われる「小田原御城御局」、やはり、武田家から付けられ、輿入れの際に黄梅院と共に小田原にやって来たと思われる家臣の飯河氏と推測される「小田原飯河内方」、そしてこれも黄梅院の婚礼時に、武田家から付き従ってきた家臣の安西氏だと推測される、「小田原安西入道」である。 甲府の黄梅院の父信玄は、元亀元年の十二月に、娘のために知行の十六貫二百文を寄進して、巨摩郡竜地に黄梅院を建立した。

本尊は子安地蔵である。幼い子供達と別れなければならなかった黄梅院を配慮してであろう。 また、この黄梅院を建立させた同日に信玄は、妻三条夫人の菩提寺円光院に対しても回向として、十八貫文の茶湯料を寄進し、二人の回向を行なっている。

また父の北条氏康に無理やり離縁させられたとはいえ、妻の事を深く愛していた北条氏政は、天正三年の七月に、箱根の早雲寺の塔頭に黄梅院を建立して、黄梅院の事を弔った。

見性院

天文十三年(1544)―元和八年(1622)年。武田信玄と三条夫人の次女。 弘治二年か弘治三年頃に、武田家のご親類衆であり、河内一帯を支配していた有力国人の穴山信友と、信玄の姉南松院の息子穴山梅雪と結婚。注目される事はこのように、武田家と穴山家は二代に渡り、婚姻関係を結んでいる事である。元亀三年に嫡男の勝千代が誕生。

その内に夫の穴山梅雪と武田家の新当主となった武田勝頼が対立するようになり、梅雪は勝頼から離反し徳川家康方に走った。

その結果、梅雪は河内の本領を安堵された。

梅雪が勝頼から離反したのは、家康を通し、信長が穴山氏をもって武田家の家名の存続を認めたからだという説がある。 実際に、天正十年の武田家滅亡後、梅雪と見性院の息子の勝千代は、武田氏を名乗っている。天正十年の三月、勝頼一行が天目山で自害し、武田家が滅亡した後、穴山家は信長から河内領を安堵されたものの、天正十年の六月三日、梅雪は宇治田原の土民一揆により、殺害されてしまった。

見性院は衝撃と悲嘆に襲われた事だろう。

これ以降見性院親子は家康の保護下に入り、家康は穴山の旧領と江尻の一部を勝千代のために安堵してやり、穴山家は何とか安泰となった。

 

 

穴山家の領地も安堵され、勝千代が元服し、名を信治と改め、正式に武田家を継いだ矢先、 天正十五年六月、信治は駿河の江尻城で病死してしまった。見性院の悲しみと絶望は深かった事だろう。

見性院はこの一人息子を大変に可愛がり、またその前途に大きな期待を賭けていたようである。実際、信治は将来が楽しみな人物であったらしい。見性院は息子を偲んで肖像画を描かせたが、あまりに似過ぎてよけい悲しくなるというので、円蔵院に移し、穴山信友の肖像画と並べて安置したという。穴山家が断絶してしまった後、見性院は故郷の下山に移り、南松院に居住した。義母で叔母でもあった南松院の菩提寺でもある、この南松院で、夫と息子の供養をしながら、日々を送ったのだろう。

なお、武田家家臣の秋山虎康の娘で、穴山梅雪と見性院の養女となっていたお都摩は、家康の側室となっている。

そして彼女は、家康の五男を生んでいた。

家康は見性院を養母として、この息子に武田信吉を名乗らせ、武田家の存続を図った。だが慶長八年に、この信吉も二十一歳で病死してしまった。

こうして武田家再興は、叶わないことになってしまった。

そしてこのように、再び息子を亡くしてしまった見性院を、家康は江戸城北の丸の比丘尼屋敷に呼び寄せ、六百石を与えた。

慶長十八年に、見性院は徳川秀忠の正室お江の侍女で、秀忠の側室お静が慶長十六年に生んだ幸松丸の養育を、家康から託される事になる。

 

おそらく、実の息子も失った見性院は 、この幸松丸を我が子同然に愛情込めて育てたのだろう。幸松丸は七歳まで、見性院の手許で育てられた。その後は幸松丸は保科正光の養子となり、やがて成人し、保科正之と名を改め、会津藩主となり異母兄徳川家光の片腕として活躍し、名君と称えられる人物になった。

見性院は元和八年六月四日に死去した。

「法号 見性院殿高峰妙顕尊儀」 見性院の養育の恩義を忘れなかった保科正之は、かつての養母見性院のために武蔵大牧村を家光からもらい、見性院のために清泰寺に霊廟を建てたのである。

見性院の墓所は、この清泰寺の徳川家家紋の三つ葉葵が刻印された両扉の中にある。ちなみにそのかつてあった霊廟自体はもう壊れてしまい、現在は門扉のみが残っている。

なお、見性院の異母妹の松姫にも、彼女が見性院と一緒に七歳まで幸松丸を育てたという話がありますが。

しかし、その後に成人した保科正之がこの松姫を供養したとか、彼女の墓を保護したとかいうような記録もないため、やはり見性院一人が養育したと考えられます。

松姫も一緒になって幸松丸を養育したという話を載せているのも、武田家関連の書籍ばかりで、他の本では見性院一人が養育した事になっている事が多いような気が? 

また公式見解でも、保科正之を七歳まで養育したのは、見性院という事になっているようなので。