周知の通り、三条夫人の墓所は山梨県の甲府市にある円光院だが、埼玉県の金久保にある陽雲寺にも、三条夫人の墓とされている墓所がある。
それによると、信玄の正室三条夫人の名は秀姫であり、信玄の弟の武田信実が三河長篠で討死後、その息子信俊がまだ幼かったため、三条夫人が養育し、信俊は成人後、川窪城主になったという。
天正十年武田家滅亡の時、信俊の養母秀姫は一時期山の中に隠遁したが、当時十九歳だった信俊は、その後家康の家臣になり、後に金窪城主になったという。
そしてこの秀姫は信玄死去後、出家し、陽雲院と称し、元和四年の九月三十日、九十七歳で死去したという。
しかし、確実に三条夫人は元亀元年に享年50歳で、信玄より先に亡くなっている。
また陽雲寺に伝わる、狩野元俊作の、信玄公夫妻画像とされている肖像画も、描かれている三条夫人とされる女性の髪型が戦国時代の様式ではない事、また着物の柄が葡萄柄になっている事。
そして制作年が寛文九年と、江戸時代である事などから、この信玄公夫妻画像は、武田(川窪)信実とその正室だと推定される。
「信玄の妻―円光院三条夫人」の中の「金久保・陽雲寺と武田氏の関係」参照。