もうすぐ三条夫人の命日の、四百四十回忌に当たる、七月二十八日という事で、三条夫人の菩提寺の円光院を初めて訪れた時の感想を。
場所は、山梨県甲府市の岩窪町にあります。
到着後、まず感じた感想。広~い!綺麗!
さすが、武田信玄正室の菩提寺です。
躑躅ヶ崎の麓にあり、周囲からは甲府盆地の山々が見渡せる、とても良い場所に建っていると思います。
ただ、お墓の方に行った時に、三条夫人のお墓の周辺に、無数のお墓が並んでいたため、最初は三条夫人のお墓を見つけるのに一苦労でした。やっと発見した時には、感動もひとしお。
天皇家から、特別に使用を許可された菊花紋が見られます。
そしてお墓の横には、石灯籠が。静かで良い場所だと思いました。
他に、注目と言えば、三条夫人達の墓所に続く途中の場所に、こんな看板が立てかけてありました。
「三条夫人のお人柄の真実 円光如日和気似春 これにより夫人の婦徳高いお姿が偲ばれます」と書いてありました。
そして「信玄の妻―円光院三条夫人 上野晴朗 新人物往来社」の中の、大河裏話のような感じで、この看板の由来が書かれていました。
それによると、大河ドラマ「武田信玄」で、三条夫人が悪妻として描かれているのに腹を立てたご住職が、苦心の策として、快川和尚が葬儀の中で三条夫人の人柄について語ったこの言葉を、看板に書かれたそうです。確かに、大河ドラマの方では三条夫人は、残酷で嫉妬深く、色黒の大女で不器量に描かれている、新田次郎原作の小説に比べれば、美人女優の紺野美沙子さんが演じられ、人間らしさがほとんど感じられない原作の人物像に比べ、いくぶん人間味が加えられていた感じですが。
それでもやはり十分悪妻、悪役という感じでした。
(ここから、三条夫人のヒステリー女のイメージも、広まったような感じですし。)
ご住職も、そうお感じになられたようで、かつてNHKに抗議までされたとか。当時のご住職のご苦労が、偲ばれます。
「信玄の妻―円光院三条夫人」によると、脚本家は当初からの予定として、原作にない、あの怖い侍女頭の八重を創作して、ドラマ中での三条夫人の今までの悪事は、全て彼女に唆された事にしたかったらしいですが。しかし、かえって彼女達の悪役コンビという印象の方が強かったような・・・・・・結果として、あまり、三条夫人の悪妻イメージが広まる事への防波堤には、ならなかった感じですしね。
円光院の付近に建てられているこの石碑に刻まれているこの一節は、おそらく元亀元年の三条夫人の葬儀時に快川和尚の追悼の語りの中の「あなたは五十年の間、御仏の道を説いてまいりました。(転法輪)しかるに重陽の菊の節句に先立ち、涅槃にはいり、やわらかく透きとおった、真の御仏になられてしまわれました。
まさに三条家の明るく光り輝くともしびは、霊山の涙一色におおわれてしまったといえましょう。それも人生五十年、常にうれい悲しむ、西方の一美人として貴女は存在しておられたのです。」
の箇所の、原文の漢語表記だと思われます。
「五十年間轉法輪 涅槃先菊紫全身
三條娘銀燭霊山涙 愁殺西方一美人」
そして石碑の下に刻まれているのは、三条家の家紋の梨の花。
三条夫人の墓所付近のこちらの石碑は、元亀四年に、信濃の駒場で四月十二日の、信玄の臨終間近の際に、枕元に重臣の馬場美濃守信房を呼び寄せ、日頃自分の陣中守り本尊として持参していた、この二体の仏像を自分の遺体と共に円光院に運んで欲しいと遺言。
そしてその遺言の通りに現在、この二体の仏像が円光院に伝わるという由来書を、石碑にしたものだと思います。
山梨県甲府市の岩窪町には、円光院旧門前の上地に、武田信玄の古墓と呼ばれる場所がある。円光院は元はかなり広大な敷地だったようであり、かつてはここ一帯も、円光院の寺域だったという。 円光院寺伝によると、武田信玄が天正元年の四月十二日、駒場で死去した後、その遺言により彼が所持していた刀八毘沙門と勝軍地蔵は、円光院の説三和尚に託された。そしてその遺体は甲府に送られた後、三年秘喪の密葬の廟所を同寺門前に定め、毎年四月忌日には回向が行なわれてきたという。
また更に、ここは村人達から魔縁塚とか火葬場と呼ばれており、信玄の遺体を火葬した場所だと伝えられている。 安永八年にここを掘ると、封土の中から信玄の石棺が現れたという。
それから、現在「武田信玄古墓」と呼ばれる、法性院大僧正機山信玄之墓」の墓石が建立された。
武田信玄・信繁・信廉の母で、武田信虎正室の大井夫人の菩提寺。甲府五山の筆頭です。
場所は、甲府市の愛宕町。元は旧中巨摩郡甲西町の鮎沢にありました。
まず、その見事な正面の仁王門に圧倒されてしまいました。
次は、まるで京都のお寺を思わせる、高々とそびえる三重塔や五重塔。
これは、旧長禅寺にはなかったようです。
三重塔は、昭和五十三年に、五重塔は、平成元年に建てられたとか。
それにしても、三重塔や五重塔が建てられているとは、さすが武田信玄の母親という感じです。
ただ、私が訪れた時には、あいにく工事中で、ビニールシートに覆われた箇所もありました。
寺には、夫人死後に、追慕像として描かれたと思われる、夫人の三男の信廉が描いた、重要文化財の肖像画がある。
尼姿で合掌した姿で、絵の上の方には大泉寺の安之玄穏の、画讃の言葉が書かれ、更にその上には夫人が詠んだ以下の和歌が書かれている。
「春は花 秋は紅葉の いろいろも 日かずつもりて ちらばそのまま」
つては、三条夫人の長女黄梅院の菩提寺黄梅院があった、黄梅院跡が山梨県旧双葉町の竜地にあるという事で、訪れた事があります。
町中の、わかりにくい場所でした。また史跡自体も、ひっそりとしたものだった事もあり。
小高い丘の上に、黄梅院跡がありました。
黄梅院についての説明の看板があり、そして石段を上がった上にありました。そこには、数体の石仏とお墓がありました。
黄梅院は明治になってから、廃寺になってしまったようで、そこがまたより淋しさを感じさせました。
十数年間、武田と北条の楔となり、甲相同盟において重要な位置を占めながら、小田原に残してきた幼い子供達と二度と再会する事もないまま、ひっそりと淋しく死去していった黄梅院の運命が、胸に迫ってくるような感じがしました。
信玄は、三条夫人が死去した元亀元年の年の十二月に、彼女との娘で長女の黄梅院のために、菩提寺の黄梅院を建立させています。
更にその同日に、彼にとって共に大切な女性達であったであろう、妻の三条夫人と娘の黄梅院の回向を行なっています。
浄土真宗のお寺で、武田信玄の次男の、武田信親の菩提寺は、甲府市の町中にありました。
やはり、盲目であったため、歴史の表舞台に立つ事がなかった人物のお墓という事で、ひっそりとしていました。
金網で囲った中に、信親のお墓と、八代護作の作である、信親の木像があったように思います。
なお、武田家滅亡後の、武田信親の子孫についてですが、天正十年の三月に、武田家滅亡を聞いて自害した信親には、信道という息子がおり、この息子と母の海野幸義の娘は、長延寺の実了に伴われ、織田軍の武田狩りを逃れ、甲斐を脱出、犬飼村へと逃走。
しかし、その内に本能寺で織田信長が自害し、武田狩りも治まったため、入明寺の栄順の計らいで信道は甲府に帰還。
その後、甲府の尊体寺で徳川家康に拝謁する。
そして長延寺の再興も、許可される。
また、この寺の再興に当たり、本願寺の顕如の妻の如春尼が、信道の祖母三条夫人の妹に当たる事も関係してか、顕如から一字名を貰い、この時から顕了と名乗る。
この時の本願寺の奉書も、かつて入明寺に残っていた。
しかし、彼が大久保長安とたまたま親しかった事から、慶長十八年の大久保長安事件に際して嫌疑をかけられ、連座して顕了と信正親子は、元和元年に伊豆大島に配流されてしまう。
寛永二十年に顕了は七十歳の高齢で、無実の罪を晴らす事ができないまま、そのまま配流先の伊豆大島で死去。
そして妻のおままも、間もなく死去。
しかし、二十年後についに信正に赦免の沙汰が降りた。
そして信正の息子の信興の代に、徳川綱吉の寵臣の柳沢吉保の柳沢家の保護を受けた
信興は、元禄十三年に綱吉に推挙され、甲斐国八代郡に五百石の領地を与えられ、寄合旗本に列せられる。
更にその翌年の元禄十四年には、高家に列せられ、大膳大夫に任じられた。そして、大正三年に、この家は武田家正統子孫として、武田信保氏が位記宣命を手渡された。
養老二年(718年)に、かの奈良時代の高僧行基が開山したと伝えられる。
聖武天皇の御代には、鎮護国家の勅額と寺山号を賜り、五二堂三千坊を数える隆盛をみたという。
往持の堂宇は平安初期に消失したが、天禄二年(971)に三枝守国が再建して以降、平清盛や源頼朝の寺領寄進や堂塔修復や、北条貞時による薬師堂建立、仏師の運慶作の日光・月光菩薩や十二神将の制作、そして武田信春の厨子寄進などが行なわれている。
大善寺の本堂または薬師堂は、弘安九年(1286)三月月十六日の刻銘があり、元寇の数年後に建立、すでに築720年以上が経過し、関東では最も古い建物になる。
庭園は、低い山裾に滝及び築山を組み、その下部に池を掘り、水を流し、右手に亀出島、左手に鶴石組を構成、また、中島を造らず出島をそれに代えるなど、江戸時代初期の特徴が現れている。
この庭園の最大の特色は立石手法がとられている事であり、この事から築庭者は三枝守全と考えられている。
天文十九年の三月の、奉加帳の記録によると、台風で破損してしまった
本堂の修復のための寄付を募るため開催された薬師供養祭りの際に、武田信玄・信繁・信廉・信是、そして信虎の正室の大井夫人と信玄の正室の三条夫人が、それぞれ寄付をしているのがわかる。
武田家累代の祈願所という事で、特に信玄は修復に力を注いだのだろう。
「武田信玄 下巻」上野晴朗 潮出版社」では、この時の奉加帳の、信玄の署名と花押に、大井夫人・三条夫人の署名と、武田信繁・信廉・信是の署名と花押が見られる。
結局、この薬師供養祭りの勧進興行は大成功で、大変な賑わいを見せたという。寄付金も多く集まり、三年後の天文二十四年の二月の彼岸には、大善寺の本堂落慶大供養の式典を行なった。
その様子は、天文十九年の祭りよりも、更に厳粛で荘厳を極め、かつ華やかな催しとなったという。
仏前には花々が飾られ、庭前には数百流の幡や華まんが飾られていた。
本堂の秘仏も、特別に御開帳され、その前には瑜伽清浄の大壇を建て、般若、理趣の秘法が終日修された。
衆僧は読誦七日、その間、経典の声が絶える事がなかったという。
これ程に前代未聞の大供養となったため、おりから彼岸である事もあり、村々の六斎念仏衆達が、我も我もと時刻を争い雲集し、鉦や太鼓を打ち鳴らして、踊り狂って歩いた。特に秘仏開帳だというので、京都や田舎の商人が大勢集まり、寺の庭や門に至るまで、市を成して賑わい、その他猿曳きや千寿万歳や、種々の遊芸者も集まり、その賑わいは到底口では表わせないくらい盛んであったと書かれている。
こうして考えると、五百数十年前に、信玄達も特別にこの時御開帳された、大善寺秘仏の薬師如来像、日光・月光菩薩像を見ていたんだなあと思うと、尚更今回の、大善寺の秘仏御開帳で私も、これら秘仏を見た事が、感慨深いものを感じました。
また、ここは別名「葡萄寺」とも言われており、昔からこの勝沼が葡萄の産地だったのがわかります。
厨子の中の本尊の薬師如来像の前に、小ぶりな「葡萄薬師」という、葡萄の一房を右手に持った薬師如来像もありました。
私が大善寺を訪れた日は、偶然にも、普段は秘仏として厨子の中に納められている薬師三尊の、五年に一度の御開帳の日に当たり、 幸運でした。
本堂と、ご本尊の薬師如来・日光菩薩・月光菩薩を見る事かできました。薬師如来も日光・月光菩薩の三体や、十二神将立像も、大きく迫力がありました。また、武田信春の文書や「武田信玄判物状」、その他多くの茶器・太刀などの寺宝を見る事もでき、感激です。
台風で破損してしまった大善寺の本堂修復のために信玄が、武田一族から寄付を募り、三条夫人もその一人として署名と寄付をしている記述がある、例の「奉加目録」も、コピー用紙ですが、見る事ができました。
文字がはっきりと見れなかったのは、少し残念でした。
拝観には、恵林寺や東光寺と同じく、拝観料が必要です。
それから本堂に行くまでの石段が、結構きつかったです。
そして石段の側には、いくつか灯篭がありました。
山門に続く参道には、所々に紫陽花も植えられていました。
この大善寺は、かの行基が開山したと伝えられ、関東では最古の建物に当たるそうであり、歴史の重みを感じますね。
年は不詳だが、十一月二十三日に、三条夫人が土屋昌恒に命じ、新寄進をしている。
信玄は天文十六年の五月、向嶽寺がまだ「向嶽庵」と呼ばれていた頃に「壁書」を与え、学問を奨励した。
また、信玄の朝廷への伝奏により、天文十六年の六月十日に綸旨が出され、開山した抜隊徳勝に恵光大円禅師の号が追贈された。これにより、「向嶽庵」は「向嶽寺」と呼ばれるようになった。
武田神社の表側には、お馴染みの武田館の主要部分、能舞台、姫の井戸、水琴窟などがあります。しかし、私が特に興味を感じたのは、武田神社裏側の数々の遺構が残っている部分です。
この西曲輪には西曲輪南側枡形虎口もあるのですが、北側の方が更に雰囲気がある感じがするので、特にこちらの方に注目しました。
武田館跡の中曲輪の西の方角にある、西曲輪は武田義信が天文二十年に、今川義元の娘の嶺松院と結婚した際に、住居として新造され、こちらの方には西曲輪北側枡形虎口、そして西曲輪北側枡形虎口南門跡がありました。そしてこちらの方角の北方面の方には土橋があり、左右に堀があります。そして更に真っ直ぐ進み、途中から東側に折れると、神社の外側の道に出て、更に進むと、「御隠居曲輪」の跡に出ます。
武田信虎正室で信玄の母の大井夫人が、夫の信虎の駿河追放後に、この御隠居曲輪に居住し、「御北様」と呼ばれるようになりました。
現在、この御隠居曲輪があったと考えられる場所は「御隠居曲輪南スポット公園」という場所になっています。
このように、能舞台や蹴鞠を行うコートのような場所、そして義信や大井夫人のような女性達が住む曲輪などがあったことからも、当時の武田館はかなり大規模な建物であったことが窺えます。
武田館というのは、北に向かって一段高く、その北の曲輪に女性達の住む建物がありました。ここは「お裏方」と呼ばれ、二つの棟になっていて、それに続き、御裏方広間と呼ばれる一棟があり、更に北に御裏方の台所の別棟もありました。
そして敷地の広さは、男性達の住む建物とほぼ同規模であったようです。しかし、武田館の敷地内にある、女性達が住む建物をいつから「御裏方」と呼ぶようになったのかは明らかではありませんが。
おそらく、三条夫人が清華七家の出であり、公卿の邸宅では内室のことを「お裏方」と呼ぶため、三条夫人の時からではないかという推測も、あります。
ただ、武田館にやや先行する、勝沼氏館の建物配置が、ほぼ武田館と同型であることから、あるいは守護家の屋形様式と、公卿や管領、将軍家などの住居様式は、すでに共通の伝統様式が生まれていた可能性も、あるようです。
「武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口」
西曲輪は、武田信玄の長男であった武田義信と今川義元の娘との結婚に合わせて天文20年(1551)に新造された義信の居館です。義信は謀反の罪に問われ、東光寺で自害したため、西曲輪のその後の利用は明らかになっていません。現在地は、西曲輪の北側に位置し、枡形虎口と呼ばれる出入口の構造が残れています。虎口とは、城館の出入口のことを指し、門と土塁で仕切られた広場の形が一升枡のように四角いことから、枡形虎口と呼ばれています。枡形虎口には2箇所の門が設けられており、石垣のある通路部分の発掘調査で礎石を確認しています。現状では、武田氏滅亡後に石垣が設けられていますが、枡形虎口は、武田氏の築城技術を代表する構造とされています。」
韮崎の神山町の真っ直ぐな道路を、そのまま上に登っていくのですが、かなり長かったです。
また、八幡宮の階段がけっこう長くて、きつかったです。
それから、逆光のせいで、写真が見ずらかったり、赤い色が入ったりしてしまったりしていますが、すみません。
武田八幡宮
弘仁十三(八二二)年に創建され、甲斐源氏の一族で武田氏の祖である、武田信義が平安末期に、氏神として敬った。そしてこれは京都の石清水八幡社が源氏にとって特別な意味を持つことに繋がり、かつて源頼義が鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請し、現在の地へ頼朝が移し、源氏の氏神としたことと同様の意義があった。
韮崎は武田氏発祥の地であり、この武田八幡宮の近くにある願成寺は、武田氏の本拠地であった。
そしてこの武田八幡宮は、武田家累代の信仰を集めた神社である。
八幡信仰は、西の武田八幡、東の窪八幡を中心に盛んだった。
東の八幡神社は、山梨市の大井俣窪八幡神社である。
そして現在、建物など十一件が重要文化財に指定されている。
そしてこれらの修築や 再建の由緒も明らかになっており、武田信満・信昌・信虎・晴信などの代々の武田家の本宗により、現在の社壇造営が行われている。そしてその内の拝殿は、天文二十二年(一五五三)に、晴信が村上義清を攻略した時に、祈願成就のために造営したとされている。
更に本殿の装飾壁画の金箔は、信玄が川中島合戦での先勝を祝って奉納したものだといわれている。
窪八幡神社は長年武田氏が本拠を置いた土地に近く、信玄に至るまで武田氏によって改修が繰り返されている。
そして武田八幡宮の本殿は、天文十年(一五四一)の十二月、晴信により再建されている。
父の武田信虎を駿河に追放して半年後のことであり、新たな武田家当主として行った、この本殿造営は信玄一生の大きな願いを託した仕事でもあった。武田八幡宮付近にある願成寺は、武田八幡の関係寺院でもあり、平安時代・戦国時代(永禄二年銘)の阿弥陀如来が祀られている。
この他、善光寺に伝わっている一組の阿弥陀三尊も武田八幡宮の大仏堂の本尊であったことは事実で、武田八幡に関係した本地仏として現存しているものが三組あることになる。
この他武田八幡神社について見てみると、中巨摩郡若草町の法善寺に、武田八幡神社で転読した大般若経六百巻と共に板絵僧形八幡神像が、明治初めの神仏分離令に伴い、移されている。
この板絵僧形八幡神像は寛正二年、武田八幡の神前に奉納したものであり、板絵の裏面に「帰命頂礼八幡大菩薩摩訶薩尊像武田御宝殿云々」とあり、武田家累代の信仰を集め、武田信玄の時代においては御旗の称号として登場した。
そしてこの武田八幡宮は、また、武田家勝頼正室の北条夫人の、天正十年二月十九日の、武田家滅亡間近の時期に納めた、戦勝祈願の願文があることでも、有名です。
しかし、この北条夫人の願いも虚しく、この願文が武田八幡宮に奉納された約一ヵ月後、天目山で武田氏が滅亡したことは、周知の通りです。
この北条夫人の願文は、三条夫人の追悼文と並んで、概して同時代史料に乏しい傾向がある、戦国女性に関する、貴重な同時代史料だと思います。
私はこの北条夫人の願文を、上野晴朗先生の「武田信玄 下巻 潮出版社」で初めて目にしましたが、和紙に達筆な仮名文字で書かれており、北条夫人の教養が窺える内容でした。
そして、本殿の近くには、この願文を拡大した石碑がありました。
原文と読み下し文が、上下に併記してあります。この願文の内容を、書いておきます。
「敬って申す 祈願の事
南無帰命頂礼、八幡大菩薩。此の国の本主として、竹田の太郎と号せしより此のかた、代々守り給ふ。
ここに不慮の逆臣出で来って、国家を悩ます。
よって勝頼運を天道に任せ、命を軽んじて敵陣に向かう。
しかりといえども、士卒理を得ざる間、その心まちまちたり。
なんぞ、木曾義昌、そくばくの神慮をむなしくし、あわれ身の父母を捨てて奇兵を起こす。これみずから母を害するなり。
なかんずく勝頼累代重臣のともがら、逆臣と心を一つにして、たちまちに覆えさんとする。万民の悩乱、仏法の妨げならずや。
そもそも勝頼いかでか、悪心なからんや。思いの焔、天に揚り、瞋恚なお深からん。
我もここにして相共に悲しむ。涙また闌干たり。
神慮天命誠あらば、五虐十虐たるたぐい、諸天、かりそめにも加護あらじ。この時にいたって、神心私なく、渇仰肝に命ず。
悲しきかな、神慮まことにあらば、運命この時にいたるとも、願わくば霊神力を合わせて、勝つ事を勝頼一身につけしめ給い、仇を四方に退けん。兵乱返って命を開き、寿命長遠、子孫繁昌の事。右の大願成就ならば、勝頼我ともに、社壇、御垣建て、回廊建立の事、敬って申す。
天正十年二月十九日
源勝頼
うち」
もっと本文の方がよく映っている内容の写真もあるのですが、そちらの方は私がもろに写り込んでしまっているので、残念ながら掲載することができませんでした。