三条夫人の菩提寺円光院には、何点か三条夫人の遺品が納められています。
三条夫人が使用していた手鏡、衣装の切れ端を繋ぎ合わせて作った、打敷と呼ばれる敷物、護身用懐剣です。この手鏡は、江戸時代の柄が付いた手鏡が出回る前の時代の物で、両面に紐が付いた形の物です。片面には武田家の花菱と四ツ菱が散らされ、もう片面には、秋草に群雀が刻まれています。
打敷は三条夫人の経机の敷物として、使われたそうです。
なお、三条夫人が実家の三条家から輿入れの時に持参してきたという木彫りの釈迦如来像は、昭和の初年、円光院が衰微していた時に、東京の好事家の手に渡り、現在は個人の所有となっているそうです。
そしてこの釈迦如来像は、三条夫人の念持仏だったとされています。
円光院のホームページで紹介している、円光院だよりの「光明」の七月一日発行の第三十五号の表紙に、三条夫人が武田家に輿入れの際、三条家から持参した彼女の念持仏と伝えられている釈迦如来像の写真が使われています。確かに上野晴朗先生が著書の中で書いておられるように、半眼の穏やかな表情の釈迦如来像です。
いかにも三条夫人の念持仏として、相応しいように思えます。
現在は、個人の所有となっている、武田信玄所蔵の笛と伝えられている、龍笛があるそうです。
その品は、室町時代は下らない笛のようです。
三条夫人の家は、笛と装束の家であるため、釈迦如来像と共に、三条夫人が輿入れの際に持参していった
可能性はあると思います。寿桂尼が、京から遠く駿河へと輿入れする際に、父の中御門宣胤が娘への別れの品として「嫁ぐ」の字を彫り、手渡した印判のように、畿内に嫁いだ姉とは違い、遠く甲斐国にまで嫁ぐ事になった、三条夫人への別れの品として、父の三条公頼が手渡した笛なのかもしれない、と想像してみました。
明治十八年に、明治天皇が山梨県に行幸した際に、供奉を努めたのが、明治維新で活躍した、当時の太政大臣三条実美である。
そこで、彼と三条夫人の縁から、まだ武田神社が創建される前に、神社の創建を祈念して、吉岡一文字の太刀が寄進されたそうです。
国指定文化財です。