三条夫人の「嫉妬深い」と同様に、武田勝頼の母諏訪御料人について、必ず付いて回る形容詞として、「絶世の美女」というものがあります。

そして、このイメージを華々しく喧伝したのも、やはり、これまた井上靖や新田次郎ら、作家達です。

まさに諏訪御料人は、作家により発掘され、創り上げられた女性といえましょう。

 それまでは、実在しないとさえも言われていた事もあるようで。ほとんど埋もれた存在であったようです。

 それから、主に上記の作家らにより、「由布姫」もしくは「湖衣姫」として、一躍悲劇のヒロインイメージが固められ、常に信玄関連の小説では、信玄にとって重要な女性として描かれるようになっていきました。

信玄に関する小説として代表的な、両氏の二作品の中での、諏訪御料人の人物像が似ているのも、偶然ではないでしょう。

 

 しかし、この「甲陽軍鑑」の「尋常かくれなき美人」という記述から連想されている、このイメージも果たして事実であると判断して良いのでしょうか?実は福田千鶴先生の「ミネルヴァ日本評伝選 淀殿 ミネルヴァ書房」にも、同じような表現が紹介されていたのです。

 それによると、淀殿を美女とする史料には「徳川幕府家譜」があり、この中に北の庄城落城の際に、三姉妹について「三女とも隠れなき美女と云々」という記述があるそうです。

そして更に福田千鶴 先生は「近世後期の編纂記録なので、何を根拠に「隠れなき美女」と述べたのか、その根拠は示されていない。

ちなみに、現代社会でも女性に関わる何事かが話題になると、その女性には「美女」とか「美人××」などと形容詞を付けて伝聞されることが多いが、実際にはさほど美人ではないこともしばしばである。

「徳川幕府家譜」の記事も、名が通った女性に付される紋切り型の形容詞だったのかもしれない。」と、考察しています。

 

 そして、諏訪御料人の場合も、彼女の容姿に関して触れているのは、「徳川幕府家譜」同様、江戸時代に編纂された 軍記の「甲陽軍鑑」であり、見てわかる通り、ほぼ同じような容姿の形容です。

 この「甲陽軍鑑」の編纂者小幡景憲も、何を根拠として諏訪御料人を「尋常かくれなき美人にて」と書いたのか、はっきりしません。

更にこの福田千鶴先生の指摘からもわかるように、この「隠れなき美女」もしくは「かくれなき美人」という表現は、当時の女性の形容に関する、常套的表現、形容詞だったらしいという事です。

  そして、当時からすでに甲斐の名門武田家滅亡や、武田家最後の悲劇の当主武田勝頼を題材とした、勝頼と八重垣姫との恋物語などが、歌舞伎として上演されるようになっていきました。

そしてそんな勝頼の母親である諏訪御料人の「尋常かくれなき美人」という表現も、事実を反映した記述というより、当時の著名な女性に対する、紋切型の形容詞として用いられていた可能性があるのではないでしょうか?

 

江戸時代から当主の生母が、とにかく尊重される姿勢が強まっていったと思われますし。小幡景憲にとって、武田家最後の当主勝頼の生母、ほぼ無条件で優れ女性、そして美女、そしてだから信玄がぜひ側室にしようとしたという図式が生まれ、当主の生母、つまり優れた女性、つまり絶世の美女である、という事になり、「尋常かくれなき美人」という記述をするに至ったのではないでしょうか。

つまり、「甲陽軍鑑」の編纂者である小幡景憲の、諏訪御料人を武田家最後の当主勝頼の生母として存在を尊重・強調する気持ち、もしくは立場の現われが、「尋常かくれなき美人」という表現だったのではないでしょうか?政治性を感じてしまうというか。

 

なお、これと関連して象徴的だと思った事ですが。

山梨の甲府市にある、武田勝頼の菩提寺法泉寺ですが、ここにある勝頼像は、その様式や描かれ方からして、明らかに江戸時代かそれ以降に描かれた物だと、推測されます。そしてこの絵の中での彼は、色白き美形になっていますが。

ですがやはり、これも時代が下るにつれて、その母諏訪御料人についての、おそらく、淀殿達三姉妹について「徳川幕府家譜」の中で使われているのと同じように、事実に基づいての記述というより、これも当時の著名な女性に付される形容詞の一種のようなものだったと考えられる、「甲陽軍鑑」の記述の中で、彼女に冠せられている、「尋常かくれなき美人にて」という表現が、時代の中で、そのままストレートに「絶世の美女」と、彼女の悲劇のヒロイン化に伴い、事実と解釈されるようになっていった経緯との、関連を感じさせます。

もしかしたら、この勝頼の描かれ方も、この母親のこういったイメージ形成と関連して、発生したものでもあるのかもしれません。

彼がこういう風に描かれるようになったのは、名門武田氏最後の当主であり、悲劇の武将武田勝頼という美化イメージにも、よるのでしょうが。

やはり、生前の勝頼に近いと思われるのは、上野晴朗氏の考証により、紛れもなく、その生前に描かれた物であった事が明らかとなった、高野山の持明院の肖像画の方でしょう。

このように考えていくと、諏訪御料人は経歴・人物像もはっきりしないばかりか、絶世の美女だったのかすら、はっきりしないという事になります。幻のような女性ですね。また、当時のどの史料からも、彼女の感情・行動は見えてきません。