快川和尚は、高名な禅僧で信玄の招きに応じ、美濃国から甲府にやって来て、甲府五山の一つ、恵林寺の開基となっています。
信玄とは深い交友を結び、また良き理解者・相談者でもありました。
また夫人とも交流があったようで、信玄夫妻についてよく見知っていた人だと思われます。武田家滅亡の際に織田軍の放った炎の中で、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と有名な名言を残し、壮絶な火定を遂げました。気骨ある僧侶だったようです。
彼の夫人葬儀の際に語られた、三条夫人評の中で有名な一句は、「円光如日和気似春」です。
これは「三条夫人の存在は日の如く輝かしく、そしてその人柄は、春のように和やかな気質であられた」という意味です。
さして検証もされないまま、一人歩きし、世間に流布している悪妻イメージとは大きな隔たりがあると言わざるを得ません。
そして彼はなおも、三条夫人はその生涯を通じて信仰心が篤く、また美しい女性で信玄との夫婦仲もこの上なく睦まじく、二人は信仰で固く結ばれた夫婦であったと述べています。
そして彼女の事を「愁殺す、西方の一美人」と称しています 。
これは彼女の人生で起こった多くの悲しみが、ついに三条夫人の命を奪ってしまったという意味です。
確かに彼女の人生は、父の惨殺、次男の盲目・長男や三男、そして長女の死と、数多くの悲しみに満ちた、傷ましいものでした。
三条夫人は快川和尚初め、各僧侶達に葬儀の追悼の言葉の中で、よく梅の花に例えられて 語られているのが印象的です。梅の花を思わせるような女性だったのでしょうか。
そして夫人は甲斐国の領民のために、領主夫人として日夜心を砕いていたそうです。いずれも、漢文で書かれており、その比喩などからも、禅僧の諸導師達の教養の高さも偲ばれます。
また、生前の武田信玄正室としての三条夫人の生き様も、彷彿とさせます。そして美しく感動的な中にも、荘重さも湛えた名文揃いだと思います。
それは、これらの三条夫人に関する言葉は、葬儀の際に語られたものであるため、多少の誇張も含まれてはいるかもしれませんが、ほぼ事実を反映した内容と捉えてよいと思います。
また、葬儀の中でこれら追悼の言葉を述べている導師達の内、快川和尚と藍田恵青は、信玄と義信の対立が発生し、謀反事件が発生した後、二人を和解させようと奔走していた僧侶達の一人でした。
そう考えて読むと、現在円光院所蔵のこの追悼文は、更に沈痛なものを内に強く漂わせ、ますます、信玄の正室に対して述べた、単なる形式的なお世辞によるものだとは私には思えません。