北条氏康と正室瑞渓院殿の三男北条氏照が、当時すでに開始されていたとされる、武田氏との抗争による必要性から、天正六年から十五年の間にかけて築城し、本拠地とし、そして天正十八年の三月二十三日に秀吉軍に攻められ、落城した八王子城跡と信松院に、行ってきました。
八王子城跡と信松院のどちらも、都心からはずれた所にあり、都民ではない私にとっては、辿り着くだけで、かなり疲れてしまいました。
特に八王子城は、高尾山の方にあり、バスではないと行けない所にあるので。
実に数年ぶりの東京観光という事で、他の場所にも、何箇所か足を運んでいた事もあり。
そもそも当初の予定からして、行きは昼間の高速バスで行ったため、最後の方の降車場所になってきてから、渋滞に巻き込まれ、観光開始時間が、弱冠遅れ気味になってしまったし。
それから、予定より遅れて、何とか最寄りバス停の「八王子霊園前」に着いたものの、徒歩十五分っていうのが曲者で、実際には、けっこう歩くんですよね。
八王子城跡のある山が、はるか後方の方に見えました。そんなこんなで、入口に到着しただけで、すでにかなり疲れきってしまい、八王子城跡の看板の説明図だけでは、史跡の各場所までの道程がわかりずらい感じがしたし、また日帰りという時間の都合もあり、それに八王子城跡付近の道にあるバスが、土日しか発車せず、下の普通の道の方にある、他のバス停まで、また大分歩かなければならないという不安があったので、残念でしたが、かなり早々に、八王子城跡探索を、終わりにしました。
せめて、小川が流れている場所くらいまでは、辿り付きたかったのですが。
しかし、少し歩いただけで、その規模の大きさを感じられました。所々にある、急な感じの登り道とか山の広大な感じとか、何か見た感じが、以前に写真で見た小谷城跡の感じと似ていると思いました。さすが、これも同じ「日本100名城」の一つの小谷城跡と並ぶ、戦国時代の代表的な山城の跡の一つだと思いました。それから他に印象的だったのが、山の方なので、山梨県と同じく、石屋さんが多いなという事です。
そういえば、八王子城跡に続く道を大分登っていた、私の後から、何かチャラチャラした感じの、いかにも史跡なんて関心がなさそうな若いカップルと、途中すれ違いましたが。しかし別に彼らは、ここから先にある八王子城跡の事については、全然話していないし、なんでこんなカップルが、こんな所に?と訝しく思いましたが。そしてなおも彼らはそのまま城跡の方へと歩き続け、そのまま私と同じく、先に目の前の八王子城跡資料館に入り、そして別に館内の各展示を眺める訳でもなく、真っ先に、暖房の効いた、椅子のある部屋へと、入っていきました。
そして、そこでもやはり、二人でイチャイチャしてるだけ。やはり、彼らは別に八王子城跡に興味がある訳ではなく、単に暖房の効いた暖かい部屋で、二人っきりでイチャイチャしたかっただけのようです。
あ~なるほどね(^_^メ)という感じです。
次は、八王子市の台町にある、松姫菩提寺の金龍山信松院です。町中にあるお寺です。お寺の瓦は、白と金に青色が使われており、何か極彩色というか、カラフルな感じのお寺でした。曹洞宗のお寺です。
聖観世音菩薩と八王子七福神の布袋が祀られています。このお寺には、出家姿の信松尼の木像もあります。目的の松姫のお墓は、信松院の脇の、布袋が祀られている通路の方の、奥まった方の墓所にあります。三条夫人の時と同じく、他のお墓より一際高くて、奥まった方の場所にありました。左右に灯籠があり、短い石段を上がった所にある、武田菱の付いたお堂?の中の、卵形のお墓がありました。
両脇に花が供えられてありました。
お墓の前には、看板があって、次のように書かれてありました。「松姫尼公は、永禄四年(一五六一)武田信玄の四女(六女ともいう)として生まれ、七才の時に織田信忠と婚約したが、その後、武田・織田両家が不和となってこの約束は果たされなかった。天正十年(一五八二)武田氏滅亡の際、姪たち数人と八王子に逃れ、二十二才の時下恩方町の曹洞宗心源院六世隋翁舜悦卜禅師のもとで出家し、後にこの地に庵を建て信松院を開基せられたのである。元和二年(一六一六)五十六才で没した。
法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼である。
昭和五十四年十一月三十日 八王子市教育委員会」
この法名は、武田氏の通字である「信」と、松姫の名の一字の「松」から採られたものでしょう。
(それから、看板の説明文にあるこの姪達とは、勝頼と北条夫人との娘ではないか?と考えられている、鎌倉公方足利家の流れを汲む、宮原義久と結婚した貞姫と、松姫の同母兄の仁科盛信の娘で、出家した督姫の事。)
なお、ここら辺一体は、「松姫通り」と呼ばれており、この地域で、松姫が親しまれているのがわかります。