日曜日に、半日で三条夫人関連の場所を回ってみました。(せっかく京都に来たのでという事で、他数箇所も。)春という季節柄や日曜という事から、予想される混雑が嫌だったので、なるべく平日に行きたかったのですが、仕事の都合上、どうしても日曜日になってしまいました。
西本願寺に、上京区の梨木神社に、嵯峨の二尊院。
西本願寺は、境内が広く、回るのも一苦労でした。
京都の駅ビルから早々に立ち去り、食べる場所を探すのにかなり苦労したので、すでにここまで来るのにも、かなり疲れていたので。
さすがに、あの西本願寺だけあって、豪華な印象でした。
梨木神社は、人もまばらで、静かな雰囲気で落ち着いて境内を散策できて、良かったです。
ご神木の「愛の木」や湯川秀樹博士の「千年の昔の園もかくやありし 木の下かげに乱れさく萩」の、歌碑も見ました。
この場所は、かつて三条夫人達の邸があった場所であり、この梨木神社は明治維新で活躍した、三条実萬公と三条実美公をご祭神としていて、看板にはこう書いてありました。
「贈右大臣正一位三条実萬公 内大臣正一位大勲位公爵
三条実美公
ご由緒 実萬公は、当時 「今天神」と人々から尊称され、才色兼備のお方であった。光格・仁考・孝明三天皇に仕え、皇家の中興に尽し、王政復古の大義を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、五十八歳で逝去された。
明治二年その功績を愛で、天皇より「忠誠公」を賜わり、同十八年十月旧邸の地名にちなみ、梨木神社として創せられるに至った。
実美公は、父実萬公の意志を継ぎ、朝威回復・攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍、そして艱難辛苦を経て維新の大業を達成せられた。そして明治維新では、右大臣・太政大臣・内大臣を歴任された明治の光勲である。」
すみません、携帯で撮影したため、所々判読できず、看板の説明が途切れ途切れになってしまっています。
すでに書いているように、三条夫人の父の三条公頼は、滞在先の周防で大寧寺の変の巻き添えで命を落とし、彼には管領細川晴元正室、三条夫人、如春尼の、三人の娘達しかいなかったため、一時三条家は断絶。そしてその後に、分家の三条西家や正親町三条家の人々が継ぎ、存続させたため、この三条実萬・実美親子も、こうした三条西家や正親町三条家の流れを汲む人々という事になります。
次に向かった目的地の二尊院は、藤原定家が「百人一首」を選定した所として有名な、「時雨亭」のあった、小倉山の東麓にあります。
とても小倉山まで眺めている余裕は、ありませんでしたが。
二尊院の正式名称は、「小倉山二尊教院華台寺」。
しかし嵯峨方面は、有名な観光地なのに、私が来たこの日は、拍子抜けする程、人がいませんでした。
現地人数人と、観光客数人がぽつりと見えるという感じで。
まだ桜の開花が、本格化していないせいでしょうか?
しかし、行ってからがまた大変で。
これが、なかなか目的の三条家一族の墓所が見つからず。
土御門天皇、御嵯峨天皇や亀山天皇などの、皇族や二条家、 三条家一族、四条家などの公家の墓の他にも、湛空上人、豪商の角倉了以に儒学者の伊藤仁斎、日本画家の富田渓仙に坂東妻三郎など、有名人の墓が多くて、 探すのが大変で。
またかなり傾斜も多く、登る時がきつかったです。
そして目的の三条家の墓所群は、かなり入り組んだ一画にあり、辿りつくまで一苦労でした。
「嵯峨家 旧姓 正親町三条家」という表記を、発見。続いて、その隣に三条一族の墓所群と「右より三条西実隆公、三条西公篠公、三条西実枝公」の木の看板が。果たして初めての京都で、半日で目的の場所を、全部回れるか心配だったのですが、何とか全部回ることができて、安心しました。
余談ですが、覚悟はしていたものの、何より現地人・観光客問わず、若者の多さには閉口しました。完全に、休日の東京みたいな雰囲気で。
昼頃に着いた、京都の駅ビルの人の多さ、西部・東部・中央と三つに分かれた、内部構造の複雑さにも、まいってしまいました。
レストラン街のどの料理店も、全然席が空かないし。
これからは駅ビルには、入らないで済ませようと思いました。そして、なるべく京都駅周辺も、早めに通過すると。
これからは京都に着いた後、お昼をどう確保するかが、肝要ですね。
今後、三条夫人関連の場所以外で、京都に行く場合は、恒例の観光スポットみたいな場所は、避けようと思いました。
それから、今度は平日に行けるように、予定を取りたいと思いました。
今回は、回る場所の関係上、街中という印象が強い所が多かったので、今度は、もう少し独創的な、そして京都らしい風情が味わえるような、コースにしたいですね。