大永元年(1520年)転法輪三条公頼の次女として、 三条邸で誕生。(現在の上京区寺町小路の、梨木神社の付近。)

 

天文二年頃、(1533年)姉が摂津の、管領細川晴元の許へと嫁ぐ。十三歳。

天文五年(1536年)七月に、甲斐国の武田信虎の嫡男武田晴信に同年齢で嫁ぐ。十六歳。

 天文七年(1538年) 太郎(義信)誕生。十八歳。

 

天文九年(1540年)の十一月、武田信虎が娘の禰々を、諏訪郡の諏訪頼重に嫁がせ、武田氏と諏訪氏との同盟が結ばれる。

 

天文十年、(1541年)六月 晴信が信虎を追放。晴信が甲斐国国主へ。

次男の信親誕生。二十一歳。

 

天文十一年、(1542年) 三男の信之誕生か?二十二歳。

七月、武田信玄が諏訪頼重を攻め、甲府に連行。

頼重、東光寺で自害。

十二月、京から冷泉為和が甲府に下向。

 

天文十二年(1543年)長女の黄梅院誕生。二十三歳。

 

天文十三年(1544年) 次女の見性院誕生。 二十四歳。

 

九月十七日、京から三条西実澄と四辻季遠が甲府に下向。

 

天文十五年(1546年) 七月十六日に、再び三条西実澄と四辻季遠が甲府に下向。二十六歳。

 

天文十六年(1547年)  閏七月二十七日には、正親町三条公兄が下向。二十七歳。

 

天文十七年(1548年) 二月十四日、上田原の戦い。

 

天文十九年(1550年)三月、信玄が大善寺の本堂修復の寄付を募るために、大規模な薬師供養祭りを催す。

京から能楽師と狂言師の保生太夫・大蔵太夫達が呼び寄せられ。三十歳。

十二月七日、太郎元服。十二歳。

 

天文二十年(1551年)、九月一日、父の三条公頼が滞在先の周防国で、大寧寺の変に巻き込まれ、命を落とす。

享年五十五歳。

 

天文二十一年(1552年)、五月三日に四辻季遠が下向。

三十二歳。

義信が具足初めの儀を行い、今川義元の娘を正室に迎える。

武田信玄の母の大井夫人が死去。享年五十五歳。

 

天文二十三年(1554年)、正月十七日と二月二十一日に、北条新九郎と黄梅院との結婚の誓詞が、北条氏康と信玄との間で交わされる。九月一日、第一回川中島の戦い。

十二月、三条夫人の長女黄梅院が小田原に輿入れ。

三十四歳。

 

 弘治元年(1555年)、七月十九日、第二回 川中島の戦い

三十五歳。

 弘治二年、 (1556年) 義信が三管領に準じられる。

三十六歳。

 

弘治三年、(1557年) 妹の如春尼と本願寺の顕如との結婚。

三十七歳。

 

永禄三年(1560年)、一月九日、武田信虎の娘のお菊御料人が、今出川晴季に輿入れする。

四十歳。

 

永禄四年(1561年) 、九月十日 第四回川中島の戦い。

四十一歳。

 

永禄七年(1564年)、七月、義信の謀反が発覚。

四十四歳。

 

翌年永禄八年(1565年)には、謀反の首謀者の飯富虎昌と長坂源五郎が誅される。義信は東光寺に幽閉。

四十五歳。

 

永禄九年(1566年)、十一月二十五日、三条夫人が義信の赤皮具足を美和神社に奉納。四十六歳。

 

永禄十年(1567年)、十月十九日に、義信が自害。享年三十歳。

四十七歳。

 

禄十一年、(1568年)十二月、信玄が駿河侵攻。

長女の黄梅院が夫の北条氏政と離縁させられ、甲府に戻される。その後安之玄穏を導師に、出家。

四十八歳。

 

永禄十二年、(1569年)黄梅院、六月十七日に死去。

享年二十七歳。

四十九歳。

 

元亀元年(1570年)、四月二十一日、正親町三条公兄が三条夫人の見舞いのために、甲府に下向。

七月二十八日、三条夫人が死去。

享年五十歳。

 

元亀四年(1573年)の四月十二日、武田信玄、信州の駒場で死去。

臨終の際に、陣中の守り本尊の刀八毘沙門と勝軍地蔵の二体を円光院に納めるよう、馬場信房に遺言する。

享年五十三歳。