平安時代の女性などの研究で有名な角田文衛先生の「日本の女性名 歴史的展望 角田文衛 国書刊行会 2006年」によると、平安時代の公家女性の命名方法には一定の法則があり、父親の諱に使われた漢字の二文字を、長女と次女に与え、三女以降は、祖父などの諱を与えるか、他の方法で与えたそうです。ただし、必ずしも長女から最初の一字を、
そして次女には、次の一字をという訳でもないらしく。長女管領細川晴元正室が公子で、次女の三条夫人が頼子で、または長女の方が頼子で、三条夫人が公子の可能性が?そして如春尼は三女だから、祖父の実香から採って、実子か香子の可能性が?
すでに長女は公子の可能性があるので、この場合は二字目の方が使われたのかも?と考えたので。
三条夫人の実名について考察してみましたが、やはり、なかなか推測が難かしい所があるとはいえ、可能性の一つとしては、父の三条公頼や祖父の三条実香の名から採られた可能性があるようです。
相互リンクしていただいている、ばんない様の「戦国島津女系図」中の、私も時々覗かせていただいているブログ「しいまんず雑記旧録」の中でも、戦国から江戸時代にかけての公家女性の実名の考察が。
このブログの「島津光久後室・陽和院殿の名前 その2」から、引用させていただきます。
「前回で「陽和院殿の実名がわからーん」…というところで話は中座したのだが。
その後、この時代の公家女性の実名にはある”名付けのルール”があることを思い出した。
それは「父親の実名を一字拝領する」という物。例としてあげると、・後陽成天皇生母(誠仁親王妃)・勧修寺晴子の父の名前は勧修寺晴右
・後陽成天皇女御・近衛前子の父の名前は近衛前久。というのも、実名というのは官位をもらうときの記録のためだけに必要な物なので、わざわざ最初からつける必要が無くなっていたからなのですな。
皇族レベルでも、女性の実名というのがかなりいい
加減な物だったことが「皇女品宮の日常生活
-『无上法院殿御日記』を読む」のヒロイン・品宮常子内親王の名付けの段取りを見ていても伺えます。実生活では「品宮」「北政所」※常子内親王は近衞基凞の正室だったと言われることが多くて、「常子」はほとんど使わなかったようですね。」
ちなみにこの勧修寺家と近衛家は、公卿になれる「摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家」、いわゆる「堂上家」の中の一つです。
近衛家が摂政・関白にまで昇進でき「五摂家」の一つで、「名家」は、大納言にまで昇進できる。
このように、室町時代以降から減っていったとはいえ、戦国から江戸時代にかけて、伝統的な公家の命名法の一つの父の名から一字もらうという方法が、まだ使われていた家もある訳で、もしかしたら、上記のように、堂上家に含まれる家の中では、比較的それまでの伝統的な公家女性の命名法が、使われていたという事だったのでしょうか?
しかし、このように父や祖父の名から一字が採られたとは限らず、陰陽師や儒家などの学者達に、 字を選ばせた事もあったようで。
また、例えば三条家の分家の三条西実隆の長女は、保子でたぶん、これは父の実隆ではなく、祖父の三条西公保から採られたのだと思います。
またこれは平安時代の例ですが、西園寺公経の長女ではなく、三女が経子になっていた例も、ありましたし。更に長女や次女が父の名前から一字選ばれ、それ以降は祖父の名からというのも、 比較的そういう例が多かったという事のようです。
公家社会では諱といって、公家女性の実名を明かすのを嫌がった傾向が強いため、なかなか照合できるケースが、 集まりずらいという事でしょう。
三条夫人の実名について考察してみましたが、 やはり、なかなか推測が難しい所があるとはいえ、 可能性の一つとしては、父の三条公頼や祖父の三条実香の名から採られた可能性があるようです。
しかし、更に気になるのは、室町時代以降は貴族社会が混乱するにつれ、女性の成人式だった裳着の儀式は、行われなくなり。
そして同時に実名も与えられなくなり、叙位や任官の時だけに付けられる特別な名前となっていき、女性の実名を子型とする風習は続いたものの、実名自体が珍しくなり、ほとんどの女性は子型の名を持たなくなっていったらしい事です。
従って叙位されたり、女房として出仕する一握りの女性達を除けば、女性は幼名や愛称をそのまま持ち続け、結婚してもそれを変更しないようになっていったようで。ちなみにそれまでの公家社会の場合、男子五、六歳から二十歳くらいまでの間に元服の式を行い、その際、幼名ないし通称を改めて、諱を付けるのが慣例でした。
女子の場合は、元服に相当する裳着がありましたが。しかし、その場合も、必ずしも諱は与えられませんでした。しかし、裳着の前後、または結婚の前、あるいは宮仕えの際に、諱が定められた。
例えば陽光院の妃で後陽成天皇の生母
勧修寺晴子は、日記などでは「おあちゃ(お阿茶)と記されています。
これは、すでに室町時代には一般的に用いられていた「あい 加賀こ 阿古 阿五 あ五々 あちゃ あと あや いと 賀々 小今 白 たと ちよちよ むめ 若女 茶々 ちよぼ」などの、公家女性達の幼名や愛称の一つです。
また、この内の「茶々」は、淀殿の幼名として有名であり、また本願寺の顕如の幼名でもあり、当時男女兼用の幼名として、使われていた名だったようです。それに徳川家康側室の阿茶局、浅井長政の母小野殿(阿古)、 前田利家側室の「お千代保」という、各武家女性達の名にも見られ、公家女性達の幼名や愛称が、武家女性達の間にも広まっていった事がわかります。
また、武家女性を指す「御料人」という敬称は、最初は平安時代後期から貴族の女性への敬称「御料」として、局地的に使われていたのが、鎌倉時代に入って一般化。更にひいてはそれが、貴人またはその子息、子女を敬っていう呼称として使われるようになっていき、江戸時代に入り、大名の息女を姫君と呼ぶのに対し、武家の娘の意に用いられるようになっていったようです。
また、これと関連して、「花嫁御寮」という呼称もありますが、おそらく、この「御料人」が転じて、後に花嫁自体に対する敬称になったのでしょう。
しかし、上記の近衛前子や勧修寺晴子の場合をよく考えていくと、やはりこれは、彼女達にこのようにいまだこの時代でも、こういう形での伝統的な諱を持っていたという事。そしてこれらは、彼女達が堂上家出身だから、この時代でも父の諱から一字採られ、それが自分達の諱として与えられたというより、天皇の妃になった場合の慣習として、やはり、それに際して必要な公的な名前としてのそれとして、父の名から一字与えられたと考えた方がいいようです。
上記のように、勧修寺晴子の日常での名前は、あくまで「御あちゃ」であったようですし。とすると、同様にこの頃の公家女性であり、天皇の妃にもなっていない三条夫人姉妹の場合、実名は与えられていなかった可能性の方が、高いのかもしれません。
しかし、これまで三条夫人の名前について、ほとんど推測の手がかりすらもなかった以前に比べると、(たぶん公家の女性だから、「子」の付く名前の可能性が高いんだろうなと、漠然と考えていた程度ですが。)実名まではいかなくても、この角田文衛先生の膨大な当時の史料を基に研究した、非常な労作のこの本の中で、当時の一般的な公家女性の幼名や愛称の各例が紹介されているので、おそらく、これらの名前のどれかで呼ばれていたんだろうなと推測するのは、興味深いです。