畑川皓氏という、山梨県の郷土史家により、数年前から三条夫人は皇女だったという、異説が出されているようです。

それによると、三条夫人は何と三条公頼の娘ではなく、後奈良天皇と側室の藤原(広橋)国子の娘で、曇華院の尼門跡となった皇女の「蘭渓聖秀」、(著者によるとはな姫)だというのです。

 しかし、当時なぜ、後奈良天皇が特に理由もないのに、わざわざ皇女を、公家に養女に出してしまうのかわかりませんし。

また、例え養育するために、多少天皇家から金銭の支給があったかもしれなくとも、当時の三条家は他の公家同様、経済的にはけして楽ではなかったと思われ、わざわざ皇女の一人を、養女として受け入れたりするのでしょうか?

 

 

それに、当時の慣習から考察してみても、いくら武田家が甲斐源氏とはいえ、武将の家に皇女を降嫁させるとは思えません。

更に実際にもその「蘭渓聖秀」は、元和九年(1623年)の九月二十五日、何と江戸時代に、72歳で死去しており、どう考えても年月の辻褄が合いません。「お湯殿上日記」の「ふけ、はなまいる」の一節と、当時今川家領内に、その「蘭渓聖秀」の荘園があったという事を根拠とする、この氏の異説は、いわゆるこじつけとしか思えません。

  そもそも、最初の、形式的に蘭渓聖秀は曇華院の尼門跡になったという説の展開にも、 無理があると思うし。 門跡って、実際に出家しなくても、なれるものなのでしょうか?

 

三条夫人に関しては、地道な研究が一向に進まず、たまに出て来る、従来とは異なる説といえば、その出自について、こうして詮索するくらいの、しかも信憑性が低い感じの、こうした奇説しかないというのが、 何とも憂鬱になってきます。

 「歴史のなかの皇女たち 服藤早苗 小学館」参照。