これは私が「見性院」の記事でも、既に触れているように、公式見解では、徳川秀忠が侍女のお静に生ませた、家光の異母弟の幸松丸(保科正之)は、武田信玄と三条夫人二女の、見性院に七歳まで養育されたという事になっています。しかし、信松尼の菩提寺である信松院では、この幸松丸を、やはりこれも武田信玄の娘の信松尼(信松院)と見性院の二人で育てたという話が、伝えられています。

そして実際に幸松丸を養育したのは、見性院であるのに、なぜこのように、信松院には、幸松丸は見性院と信松尼の二人が、七歳まで共に育てたなどという話があるのか?という理由についてですが。

私はもしかするとこれは「柳営婦女伝系」にある、秀忠のお手付きになり、幸松丸を懐妊した侍女のお静が、当時、見性院が家康から与えられていた武蔵国の大間木村(大牧村)の領地に移り、そこで出産したという記述の中で、見性院の法号が誤って「信勝院」と記述されている事に、端を発しているものではないのか?と思うのですが。

 

つまり、私はこの信(しん)と勝(しょう)という記述から、転じて、信松院(しんしょういん)と見性院(けんしょういん)の二人が、幸松丸を共に育てたという話が、生まれてくる事になったのではないのか?というように、感じる所があるのですが。この誤って記述された法号には、このように、二人の法号と同じ発音である文字が、それぞれ一字ずつ、入っている事になりますし。

(江戸時代の人々は、音や訓が同じであれば、どの漢字を宛てるのかに関してはあまり厳密に考えないところがある。宛て字に対する許容範囲が、とても広いとの、福田千鶴氏の指摘もありますし。つまり、この場合に大事なのは、名前の表記の同一性よりも、名前の読み方の同一性という事ですね。)

そしてこうした法号の記述から、それぞれ、信玄正室三条夫人と信玄側室油川夫人を母に持つという、異母とはいえ、彼女達は姉妹でもありますし、武田家滅亡後に、彼女達の間に、こうした接点があったのではないのか?と連想されて、という事ではないのか?というか。

ちなみに信松院の亡くなったのは、江戸時代の元和二年で、そしてこの二人の逸話は、おそらくそれ以降、それなりの時間が経ってから、生まれた話でしょうし。

 

なお、私は以前の三条夫人の長女でこの見性院の姉である黄梅院の記事の中で、彼女の育てられ方について、考察した事がありますが。

それは確かに母親の三条夫人が公家の女性であるので、黄梅院も公家風の教育も受けていた可能性はあるとは思いますが。

しかし、更にその立場としては、黄梅院も武家の姫という事になるので、武田家にいる時に彼女は武家の女性としての教育も、受けていたのではないかとも書きました。そしてもちろん、この妹の見性院の方も、そうだったのではないかと思われます。

それに注目すべき点として、この見性院には天下人として武家社会の頂点に君臨する事になった徳川家康から直々に、彼の庶子の孫である幸松丸の養育を任されている事です。

そして家康がこうした判断を下すまでに、それなりに彼と見性院とは、以前から交流の機会もあった事だと想像されますし。

そうした事から、おそらく家康から見性院が武家の男子の養育を任せても、大丈夫な女性であると信頼した上での判断だったと思われます。

それから、他にも既に彼女が自身の嫡男の穴山信治を十七歳まで育てているという事も、家康から孫の幸松丸の養育を任された理由の一つであると思いますが。そしてこのように信治は夭折したとはいえ、既に元服している息子ですし。更にこうした点から考えても、未婚でそれまで子供の養育経験もない信松尼も、この家康の孫の幸松丸の養育に関わるというのは、私は無理があると思います。

 

そして円蔵院の桂岩和尚が見性院に頼まれ、天正十九年の六月七日の信治の五回忌に行なった画賛によると、信治は六芸にもよく通じ、また更に中国の兵法書で「武経七書」の一つである「三略」も、よく学んでいたと称賛しています。この六芸とは礼(礼節)、楽(音楽)、射(弓術)、御 (馬術) 、書(書道・文学)、数(数学)の六科目であり、戦国武将達の間での基本的な必須教養として、幼少の頃から学ぶ事でした。

更にこの「三略」も、当時の武将達の間ではよく読まれた兵法書でした。

こうした、この信治の五回忌の画賛の内容からも、当時の武家の男子の育てられ方が、示されていると思います。

それからこのように、桂岩和尚の画賛の中から、見性院の息子の信治が、典型的な武家の嫡男としての教育を受けていたらしい事が伝わってくる事。また家康から見性院が幸松丸の養育を任されている事から考えてみても、やはり見性院も母親が公家の女性である三条夫人だとはいえ、武田家にいる時にきちんと武家の女性としての教育も、受けていたという事だと考えられます。

また、この黄梅院や見性院同様に、公家の女性である寿桂尼を母に持つ、北条氏康正室の瑞渓院も、やはり、公家出身の女性を母に持つとはいえ、武家の姫として成長後はやはり武家の妻として嫁いでも、その武家の妻としての生活にも十分適応していたようであり、特に支障もなかったようですし。そしてこれらの例から見ても、彼女達のようにその母親が公家の女性であれ、いずれも武家の姫である事は確かであり、彼女達も基本的には、その生家で武家の女性としての教育を受けていたという事ではないでしょうか?