戦火の京から逃れてきてとは書かれているものの、それで平和な地方で暮らせるようになったのを感謝する所か、一向に自分の与えられた環境に満足できず、武田信玄との結婚も惨めな都落ちとしか思うことができず、どこまでも自分の境遇を否定的にしか捉えられない女性にされています。
また軽蔑して嫌悪している夫に触れられただけでヒステリーを起こす、こういうヒステリックな感じとかも含めて、全くこれまで通りの、三条夫人像です。
しかも、これも京から女主人に付き従ってきた彼女の侍女に、手を出そうとする好色な主人とか、もうまんま新田次郎の武田信玄の小説そのままの、古臭いイメージですね。更に、なぜか同じ京出身の侍女の方は、高慢な女主人とは違って、謙虚な感じに描かれているのも、この小説での架空の三条夫人の侍女のおここそっくりだし。おそらくこの作者、この小説での一方的な解釈が、まだこの夫婦についての事実に近いとでも思っているのでしょうね。
しかもこの作者が女性で三条夫人と同じ関西圏の女性というのも、よけい嫌なものを感じました。その上、それ程昔の小説では、なさそうだし。
このように、三条夫人に関してはいつまでも古臭くて紋切り型のイメージが繰り返し流布され続けている感じで、うんざりとしてきます。まるで私のこれまでの努力を嘲笑われ続けているようで、つくづく、滅入ってきてしまいます。
有名無名問わず、作家の方が三条夫人についての偏見が、根強いのでしょうか?いくら長年の間、私が武田信玄正室三条夫人についての積極的な再評価をこうして訴え続けても、特に日本史についてたいして関心も知識もないと思われる一般人レベルでは、そうした私の主張については、こうした冷笑的な反応をする人間が、大半なのでしょうか?
相当気持ちが、くじけてきてしまいました。
個人単位でできることの限界を、ひしひしと感じています。
そんなに、実際には三条夫人は公家の名門の家柄を鼻にかけるような、高慢な正室ではなく、むしろ正反対の感じの、自己を厳しく律し、かつ他人には寛容で穏やかな人柄だった、そして武田信玄と三条夫人が実際には円満な関係だった、では気に入らない、納得できないと思う人達の方が相変わらず圧倒的なんですかね?
いつまで経っても、武田信玄と三条夫人に関しては、古臭いステレオタイプな解釈が好きな人達ばかりということでしょうか。
本当に何かと同時代史料を欠くことの多い、戦国女性にとっては非常に貴重かつ史料的価値も高いと思われる、当時の葬儀時の追悼文まで詳細に残されているというのに、ここまでそういう尊重すべきではないか?と思われる当時の史料が、いつまでもいろんな媒体で積極的に活用されない日本史女性も、珍しいと思います。
そして相も変わらず、はるかに信憑性が疑わしい、ほとんど同時代史料や具体的根拠にも基づかない、無責任なフィクションの中での描写やそうした作家達などの憶測の方が、幅を効かせ続けている。
しかし、本当に他の多数の著名な戦国武将達の正室達でさえ、このような追悼文など残されていないケースが、圧倒的だというのに。それこそ現在に至るまで、こうした形できちんと保存してもらえているのなんて、武田信玄正室三条夫人くらいですよ。
それに、普通、いくら名門の公家出身の正室とは言えど、謀反を起こした息子の生母である正室のために、ここまで詳細な追悼文まで残してやろうなんて思うものなのでしょうか?しかも、ありし日の三条夫人の人柄や生き様について追悼の言葉を口々に述べているのも、甲府五山に集った、いずれも綺羅星の如き、傑出した名僧の禅僧達ばかりですし。
特に快川和尚は二人の夫婦関係について「まさに三条夫人の仏法は、鴛鴦の仏法と断ずることができましょう。」と述べていますが、これはおしどり夫婦の例えとして使われる「鴛鴦の契り」から来ているものでしょう。そして更に「すなわち、夫武田信玄公との間は、比翼の契り、夫婦仲の睦まじかったことは譬えようもなく、常に仏法護持の信玄公のお考えにそって行動され」と続いて述べられています。
そしてこの「鴛鴦の契り」も「比翼の契り」も、いずれも中国の故事から来ているものです。こちらの「比翼の契り」というのは、「比翼」は、雌雄がそれぞれ目を一つずつ持ち、翼がくっ付いているという中国の想像上の鳥の事です。その鳥が交わす約束という意味から、夫婦の契りの事、夫婦が固く結ばれている様子を意味する表現です。
つまり、二重に快川和尚により、武田信玄夫妻の二人揃っての、仏教への信仰心と彼らの夫婦仲の良さが、強調されている訳です。また快川和尚のこうした表現からも、中国古典の習得が、当時の禅僧達の必須教養だった事もわかります。
更に信玄は彼女の菩提寺の円光院のために、簡単には認めてもらえない、説三和尚の紫衣の着用まで大金をかけてまで朝廷の許可を求め、その後もこの円光院を手厚く保護していますし。
またこの円光院には、武田家系図や信玄の陣中守り本尊の勝軍地蔵や刀八毘沙門天像も、納められていますし。
やはり、信玄は本来なら、正室の三条夫人との嫡男である義信に、武田家を継いでもらいたかったのではないですかね?
なお南巨摩郡身延町下山の一ノ宮賀茂明神にも、信玄寄進の刀八毘沙門天画像二幅があります。
また東山梨郡三富村徳和の吉祥寺は、石和五郎信光が興した寺で、この本尊も毘沙門天です。そして永禄八年、信玄は川中島合戦に臨み武運長久を祈り現在の本堂の寄進をしています。
また信玄の墓所がある恵林寺には、彼所有の軍配があります。
表に日の丸に毘沙門天の通字「バイ」が配され、裏には二十七宿を象った陰陽の星が配され、吉凶を占う方法が示されています。
このように毘沙門天信仰は、信玄にとっては軍神として最高のものでした。
それに、もしかしたら、信玄は謀反を起こした息子の生母である正室ということで、このように後世の人々に三条夫人が悪妻と誤解されないように、あえて妻の三条夫人の名誉のために、きちんと彼女の生前の人徳や素晴らしい正室としての数々の貢献を記録させて残させたのではないか?と思うのは、想像を膨らませ過ぎなのでしょうか?
それから、そもそも、世間のこれまでの三条夫人についての認識って、本当にそんなに大きく変わったのでしょうか?
おおっぴらに悪妻とか表明されなくなっただけなのでは?という気がしないでもありません。相変わらず、こういう小説も存在している訳ですし。
私の知る限りでは、武田氏研究者などの研究者達が、これまでの三条夫人についてのこういった見解は不当だったと、改めて何かの商業出版などで、これまでの三条夫人についての認識について撤回するようなものも、目にした例がないですし。やはり、いまだにまともに手がつけられないまま、捨て置かれているような。実際に、三条夫人個人について、新たに本格的に取り上げた研究系の商業出版も、まだないですしね。
果たして上野晴朗先生の「信玄の妻 円光院三条夫人 新人物往来社」に続くようなものは、この先刊行されるのでしょうか?
ある、私のサイトについてメールをくれた方の話によると、何でもあの北政所でさえ、秀吉の妻達の中では、昔は彼女より圧倒的に淀殿の方が注目されていたらしく、最初はただの秀吉の未亡人くらいにしか、思われていなかった時期があったそうです。それが橋田寿嘉子脚本の「おんな太閤記」辺りから、初めて彼女について、なかなか印象的・重要な描き方をした頃から、俄かにスポットを浴び始め、その内に研究分野においても、ぽつぽつと彼女についての評価の見直しも、され始めるようになってきたらしいです。
それに、これと関連して、ちょっと気になったので、これも代表的な戦国女性の一人であり、個別の研究もある細川ガラシャについても、一体いつぐらいから、研究の分野でも本格的に注目され始めるようになったのかと思い、自分なりに少し調べてみました。
そしたら、この彼女の存在も、最初は専らキリスト教関連で多少注目されている程度に、留まっていたようです。
しかし、例の永井路子の細川ガラシャを扱った代表的小説の「朱なる十字架」が発表されて、更におそらくそれに触発されてこの数年後に書かれたと思われる、これも彼女を扱った小説としては、現在代表的な作品の一つになっている、三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」と、立て続けにヒットした小説の発表が、本格的な注目の契機になったような感じですし。
そしてその証拠に、この数年後にはついに、細川ガラシャについては、戦国研究系の書籍でも扱われ始めるようになっていくようですし。
諏訪御料人だって、最初は武田氏研究の世界でもその実在すらも、疑問視されていたような有様だったというのに。
しかしその内に井上靖が、武田信玄関連の小説では恒例のネタ元となっている「甲陽軍鑑」での諏訪御料人などについての記述を主に用いて、その小説「風林火山」の中で、修羅の運命を生きた絶世の美女として、武田信玄のみならず、その彼女に影のように付き従う山本勘助からさえも、熱烈に恋い慕われる存在として取り上げてから、俄かに戦国武田氏の格好の悲劇のヒロインとして、注目を浴びる存在に昇格した訳ですし。
何かこうして見て見ると、研究者達も、結構こういったものに、乗っかりやすい?
しかし、こうした戦国女性達とは反対の意味で、歴史小説やドラマなどを中心として、一斉にネガティブキャンペーンが張られてきてしまった、三条夫人の風当たりが、ずっと厳しいのも、よけい当たり前ですね。
批判意見も少なくなかったとはいえ、以前から研究者も含めた擁護意見もそれなりにあった築山殿や淀殿などとの場合とも違い、三条夫人については、本当にどの媒体でも、一方的な批判的な見方ばかりが、延々と続いてきてしまいましたからね。
現在ではすっかり著名な戦国女性達になっている、上記の北政所や細川ガラシャなどのこうした扱いの変遷一つ取っても、こうした有名なフィクション作品が、大きな影響を与えているようですね。
逆に言うと、歴史人物って、一度何か大きなレッテルを貼られてしまうと、こうしたフィクション主導の何らかのブームでも巻き起こらない限り、名誉回復や本格的な再評価は難しいということを、やはり物語っているような気もします。
それにしても、三条夫人と同じくこれまで長い間、悪女・悪妻とされてきた、築山殿や淀殿、そして時代は戦国時代よりやや前になるとはいえ、これも三条夫人と同じ公家の女性でもある、日野富子については擁護するような小説などを書いていて、その一方で三条夫人については否定的に扱っている作家も多いですが、この扱いの差も、何なのでしょうね?
作家達の恣意的で、興味本位な基準という事でしょうか?特に築山殿など、正室で嫡男の生母でありながら、父親と息子の対立で息子が自害させられ、とうとう当主の生母になる事ができなかった点など。
このように、三条夫人との共通点もいくつか見られるのに、この扱いの違いは不思議な気がします。
これらの点も、ずっと以前から、私が引っかかってきた事でした。やはり諏訪御料人のような、作家達に注目されがちな存在の側室が、その周辺にいるかいないかの違いなのですかね?
やはり興味本位的な基準という事なのでしょうか。
もうすぐ三条夫人の、四四五回忌ですね。そういえば、去年2014年の二月に、甲府を襲った記録的豪雪により、円光院の本堂と庫裏が破損してしまい、修復せねばならず、大変だったとか。歴史ある由緒正しいお寺を守り続けていくというのも、大変ですね。