戦国時代の武将及び夫人の肖像画の形式としては、人物が緑色の上畳に腰掛け、男性は腰に刀を差し、片手には扇子を持ち、そして女性となると、特に死後の追慕像が圧倒的に多いためか、手に数珠を持った姿で描かれている事が多い。
そしてすでに書いてきましたが、これらの肖像画の多くの上部には、「賛」と呼ばれる文字が記される。
これらは、禅僧の高僧によって記される事が多い。
文章であったり、漢詩、和歌、俳句であったりする。この賛というのは、禅僧の肖像画の「頂相」に特徴的に見られるものである。
よって、禅僧文化の浸透が武将の肖像画などに賛を書かれる大きな契機となったと考えられる。
そして大抵武将の像には、長文の賛が添えられている事が多い。これはその人物の生涯・人柄・戦歴・教養などが記されており、その人物の人物像を知る上で、参考になるものです。
こう見てきても、おそらく、葬儀用に使うため、葬儀間近に描かれ、葬儀当日に行われる儀式の一つの「掛真」の時に掲げられたと思われる、当時の三条夫人の追慕像が、現在失われてしまった事が、本当に残念でなりません。
おそらく夫の信玄と共に熱心に甲府の仏教保護・奨励政策に深く携わっていたと思われる、三条夫人。
そしてまた、甲府五山の誕生に貢献している、数多くの高名な禅僧達が集っていた、当時の甲斐国の状況を考えてみると。
おそらく、武田信玄正室である三条夫人の当時の追慕像の上部にも、円光院の追悼文と合わせて、生前の三条夫人の人柄を、更に詳しく知る事のできる、貴重な情報になったと思われる賛文(正式には「賛説」(散説))が、書かれていた可能性は、かなり高いと考えられるので。
元々、戦国武将達やその夫人達の絵の上部に書かれる事が多いこの「賛」は、禅宗文化から来ているとの事。そのため、文字通り、武田家関連の肖像画に、快川紹喜・末宗瑞曷・説三恵璨などの、当時の甲府の高名な禅僧達の「頂相」が数多く残っているのも、禅宗に深く帰依していた武田家の状況から考えても、十分納得できます。
「戦国武将の肖像画 二木謙一・須藤茂樹 新人物往来社」でも、当時の肖像画を観る上での注意として、追慕像の中には、初七日など没後間もない時期に描かれたものから、その像主の関係者が全くいなくなり百年以上経った百五十回忌に描かれたものまで、その年代幅は広い。
やはり、その肖像画の制作年月が、その人物の没年に近ければ近いほど、生前に描かれた「寿像」に近く、信憑性も高いという趣旨の事が書かれていました。