八重森因幡家昌

残念ながら、三条夫人に仕えていた侍女達の詳細はおろか、名前さえも伝わっていない状況です。

おそらく、当時の三条夫人の許には、京の実家から付けられた侍女達と、武田家から新たに付けられるようになった侍女達がいたはずだと思うのですが。ただ、男性の家臣達については、多少は伝わっているようなので、ここで挙げておきます。

そしてこの八重森家昌は、三条夫人が嫁いでくる際に、三条家から付き従い、使者の役割を果たしていたそうです。

ただこの彼については、果たして三条夫人の家臣に入れてもいいのか、悩む所もあるのですが。詳細が、よくわからない感じですし。

それに勝頼の代になってからは、どうも毛利輝元との同盟を結ぼうとする、勝頼の使者になっていた事もあるようだし。

またこの八重森家昌が紹介されているのも、「甲陽軍艦」の「甲州武田法性院信玄公御代惣人事数事」の項のようですし。

 

 

最初は京から三条夫人に付き従ってきた、三条夫人付きの家臣だったけれど、その後に武田家家臣という事になり、そして代が変わってからは、引き続き、勝頼に仕えるようになったという事でしょうか?

彼本人の生涯はよくわかりませんが、天正四年から、きっかけとしては足利義昭の、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の間での「甲相越三和」の同盟を結ばせ、自分の上洛を行わせようとする構想により、天正四年の九月十六日に、勝頼側の使者として、西国の毛利輝元の元へと派遣されています。また、同時に当時備後に滞在していた、足利義昭の許にも派遣されています。ただ、八重森家昌はそれ以前にも、既に天正四年の六月に、始めは本願寺からもたらされた、将軍足利義昭は現在は備後に移動したという情報の確認をさせるために、勝頼に備後に派遣されていたらしい。

 

 

そして帰国した彼から、その情報は事実であると確認した勝頼は、義昭宛てに度々使者を派遣した。しかし、遠い西国である上に、勝頼側から派遣された使者は、度々敵の織田氏側に捕えられて処刑されたり、あるいはこの困難な任務に立ちはだかる、このような障害に途中で躊躇して、帰国したりしてしまっていた。

そこで勝頼は、毛利家の軍備の様子を探り、信長に対する共同軍事作戦実行のための下知を得るために、おそらく父の信玄の代からの、西国の地理にもよく通じた熟練した使者である、この八重森家昌を改めて再度西国の毛利輝元の許へと派遣している。

敵方の織田氏側の妨害の危機もある、このように困難な任務の実行に成功している訳ですから、このような使者としてはかなり有能であり、信玄・勝頼と二代に渡り、武田家で重用されていた人物なのがわかります。

 

そして彼は主に西国方面の使者になっていたという事なので、もしかしたらこの八重森家昌が、三条夫人の父の三条公頼の仇である陶隆房を厳島の合戦で毛利元就が破った時に、信玄側から元就側へ、間接的に義父の仇を討ってくれた事に対するお礼を、使者として伝えた可能性も、あるのかなと少し想像したりしてみました。

思えば、遠い西国の大名である毛利氏と武田氏との最初の接点としては、ここら辺からではないかな?と想像を膨らませてみたりしました。

 

 「武田氏研究 第53号」

武田・毛利同盟の成立過程と足利義昭の「甲相越三和」調停

―すれ違う使者と書状群― 丸島和洋

 

 

 

跡部勝忠

年は不詳ですが、三条夫人の依頼を受け、向嶽寺に新寄進をしている人物。また、これも三条夫人の依頼を受け、永禄九年十一月二十五日に、美和神社に義信の赤皮具足を奉納している跡部又八郎と同一人物だと思われます。「跡部又八郎勝忠」でしょうか?

それにしても、淀殿や細川ガラシャなどとは違い、三条夫人の侍女達については、全く判明していないのが改めて残念です。

小田切縫殿允

天正元年九月三日に、武田家が、小田切縫殿允などに 三条夫人に昼夜の奉公をしているからと、郷次の普請役を免除した。

ただ、この時期は、すでに勝頼が当主になっているはずなので、年月など、やや記述の信憑性に疑問?