現在円光院所蔵の三条夫人の肖像画は、三条夫人の死後かなり経ってから描かれたらしい、追慕像です。

当時に、三条夫人の死後間もなく、描かれたと思われる追慕像の方の肖像画は、残念ながら失われてしまったようです。

 死後に描かれた肖像画を「追慕像」、生前に描かれた肖像画を「寿像」と呼びます。元亀元年に行なわれた三条夫人の葬儀の際には、この、葬儀用に描かれたと思われる、最初の追慕像が掲げられ、葬儀が行われたようです。葬儀の中では「掛真」と呼ばれています。

その、最初の肖像画への、円光院二代目住職明院和尚の「賛」が残っています。「円光院殿肖像に讃す、遠く武田太郎晴信に嫁ぐ、三条大臣公頼の娘、元亀午歳孟秋(七月)の末に、齢五十に殲きて円光と号す。

元和二年丙辰七月」

 

これは、元和二年(1616)七月の、三条夫人の四十七回忌に書かれたもので、これは最初に書かれた賛ではないようです。

 とにかく、この時にはまだ、三条夫人の死後間もなく描かれた、最初の肖像画は残っていたようです。

 

そしてこの問題に関しては、上野晴朗先生の大変に気になる指摘もあります。彼はこの問題に関しては、これは長い波乱の五百年程の歴史の流れの中で、いつしか失われてしまった可能性もあるのだろうが。

しかし、またあるいは江戸時代に入ってから「甲陽軍鑑」などにより生まれた観念的な見方から、武田信玄に対して謀反を起こしている、三条夫人の息子の武田義信同様に、故意に消し去られた可能性も高いとも考えてもおられます。

 

そして私はこれはなかなか鋭い指摘かつ、十分あり得る可能性ではないかと思います。確かに武田家関連の肖像画は、割と現存している比率が高い方だと思われます。

武田関係者のみならず、甲府五山の各僧侶達の肖像画まで含め。

これはやはり、甲斐国におけるかつての武田家の勢威及び、特に武田信玄の代になってから、この信玄により、京都五山を参考にした甲府五山の各寺の設置など、甲府内での仏教の振興やその浸透、そして保護に力を入れていた事にも、大きく関係があるのでしょう。

 

また、このように、武田家の人物、また確かに男性よりはその当時の肖像画が残りずらい傾向があるとはいえ、しかし女性達だけに限っても、それでも長禅寺の武田信虎正室大井夫人、そして南松院の同名の穴山信友正室で信玄の異母姉の肖像画などでさえも、残っているというのに。

また上記のように、武田家の人物以外にも、円光院の初代住職の説三和尚や恵林寺の快川和尚などの僧侶達の当時の肖像画でさえ残されています。それなのに、武田信玄正室であり、更に他ならぬ、円光院の開基である三条夫人自身の当時の肖像画が残されていないのは、義信事件とも相俟って、どこか不自然なものも感じさせます。

この点については、やはり彼女の息子の義信の謀反、及びそれに対する見方が時代を下るにつれ、厳しさを増していったのではと想像される事と関係があるのではないのか?と思わされる所があります。

 

また既に挙げている通り、上野先生も指摘しているように、特に江戸時代になってから謀反及び、父親に逆らう事は大変に非難されるべき、けしからぬ事である、という儒学に基づく価値観の浸透により、必然的に三条夫人母子に対する非難の傾向が強まっていった事も、容易に想像される事です。

こういう予想される、江戸時代の風潮から考えても、当主であり、父親である信玄に対して謀反を起こした嫡男の義信、及びその生母である三条夫人に対する批判的な視線も否応なく強まり、結果、そうした影響を受けて、東光寺の武田義信の肖像画や円光院の三条夫人の肖像画も、その内に故意に撤去されてしまった可能性も、否定できないと思います。

また完全に徳川家康の神格化も成立したと思われるこの江戸時代といえば、彼により死に追いやられている、その正室と嫡男の築山殿と信康の事件が、更にこの築山殿とその境遇が似たような印象を与える三条夫人に対する否定的な扱いにも、拍車をかけていった可能性も、想像されますし。

 

それから、この当時の三条夫人の肖像画の作者はわかりませんが、信玄の同母弟で、画家としても有名な武田信廉(逍遥軒)が、父母で先代武田家当主の武田信虎と正室の大井夫人の絵を描いており。

また穴山信友の正室になった、信玄の姉の南松院の追慕像も、その画法から、武田信廉が描いたと推察される事から、この当時の三条夫人の追慕像も、どうやらその才能から、武田一族の追慕像を描く役割を担っていたらしい、同じ武田信廉が描いたのかもしれません。

もちろん、三条夫人自身が京都の出身である事もあり、京都から高名な絵師を呼ばせて描かせた可能性も、あるとは思われますが。

ですが武田家のご親類衆である武将でありながらも、その傑出した絵の才能及びこれらの実績から考えても、三条夫人の肖像画も、この武田信廉の手によって描かれた可能性も、私はあるのではないかと思います。

 

 

それから予想される、当時の三条夫人の追慕像の描かれ方としては、この時代の肖像画の様式として緑青色の上畳の上に三条夫人が腰掛け、やはりその信仰心の篤さについても度々追悼文でも触れられている、三条夫人ですから、それに当時の戦国女性の追慕像に多い様式から考えても、現在の追慕像のように、合掌した姿で描かれていたのかもしれません。

また、葬儀時の三条夫人の追慕像を描いたのが、武田信廉だとすれば、絵の上の方には、大井夫人や南松院の追慕像と同じく、快川和尚か、説三和尚の賛の文章が、書かれていたと思われます。