大内時代の深川庄は、三条家の荘園があった場所です。そして更に山口の湯本温泉の台地には興阿寺があり、そしてこの寺は、三条公頼の父である三条実香の創建だそうです。
そして衆知の通り、彼の息子である三条公頼は、当時おそらく、在国して三条家の家業である、笛の指南をするためか?
あるいはこちらの深川庄の荘園経営のために(両方の目的だったのかもしれませんが)、彼は大内義隆の許に滞在していたと思われるが、天文二十年の九月に起きた「大寧寺の変」で、これもかつて要職にあった数人の、やはり同様に築山館に滞在していた公家らと共に、この政変の犠牲となり、彼らの多くが殺害されてしまった。
そして大内義隆と重臣一同もここで自害し、彼らと共に公頼は京から遠く離れた山口の地に、埋葬される事になりました。
そして湯本の荒川忠次氏の家に「先祖、上田河内守が、武田信玄の家臣」という記録があり、主君である武田信玄の義父である三条公頼の供養のため、元は武田家家臣と思われる、この河内守はこの地に来たものとも考えられているようだ。
これは信玄の義父の三条公頼の供養と共に、悲嘆の正室三条夫人の心を少しでも慰めようと思っての、計らいかもしれせんね。
しかし、大寧寺と三条家との因縁は、これだけでは終わりません。
文久三年(一八六三)の八月十八日に起きた政変である、「七卿落ち」により、またまた大寧寺と三条家との関わりが交錯します。
この事件により、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の公卿、三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉が、再挙を図るため京都を脱出、長州藩に落ち延びていきました。
そしてその時に三条実美は、三条公頼の実際の墓所である、深川の大寧寺を訪れたそうです。
なかなか三条家と大内氏、また三条家と大寧寺とは関わりが深いですね。それにしても、大内氏と三条家との交流が盛んになったのは、深川の大寧寺に、三条家の荘園があったせいなのか?
それとも、一時期は、大内氏が今川氏や武田氏よりも、一番上洛に意欲的かつ勢いがあった時があり、一番京でも注目される勢力だったからか?
更に大内政弘が三条家の分家である、三条西家の三条西実隆に和歌を学んでいる事。また後に今川氏の下で外交折衝などでも大いに活躍した、連歌師の宗長の師でこれも著名な連歌師の宗祇も、後に山口が西の京と呼ばれる程の土台を築いた、このように文化に造詣が深かった大内政弘の招きにより、周防に下向しているなど、大内氏が盛んに公家達を招き、公家文化を採り入れるのに、意欲的であった傾向など。
(三条家と大内氏とは、三条公敦と大内政弘との頃から、既に彼の周防への下向などで、交流が始まっている。
そして三条公敦は、三条家伝来の、高祖父の公忠が後小松院に書写奉献した孝経を、文明十八年に、政弘の嫡子の義興に与える事までしている。)また、大内氏は都への憧れが強いだけあって、大内義隆以前にも、大内弘世の正室が、三条家出身であったらしく、また大内政弘の正室も、今小路成冬の娘でした。
やはり、これらいろいろな理由が重なり合ってと考えた方が、いいのかもしれません。
それから、武田氏は大内氏とは、例えば毛利氏などのように、直接的な利害関係もないし、また遠い西国、そしてこれまで武田軍は海上の合戦も未経験。おそらくこれらの事もあり、自分の義父であり、また三条夫人の実父である三条公頼が陶隆房軍に殺害された妻の歎きを見つつも、直接陶隆房を討つ事ができないという、信玄にも忸怩たる思いがあったのでは?と思われます。
そしてもしかしたら、間接的とはいえ、こうして三条夫人の父であり、義父である三条公頼の仇である陶隆房を倒してくれた毛利元就に、信玄側からお礼の使者くらい、遣わされていたのではないか?と想像してみました。おそらく、厳島の合戦で、三条公頼他、大勢の公卿達を「大寧寺の変」で殺害した陶隆房を、毛利元就軍が厳島で討ち取った報せは、甲府の信玄の元にも、時差はあるでしょうが、届いたのではないかと思いますし。
また陶隆房軍に殺害されたのが、このようにみなかつては高位の公卿達ばかりである事から考えても、この合戦の結末については、朝廷の方でも、ちょっとした話題になっていた可能性もありますしね。
かつて大内氏自体も、何度も上洛している有力大名だった訳ですし。
そして最初三条夫人付きの家臣として、彼女に従い甲府にやってきて、その後は主に西国方面の使者をしていた八重森家昌が、この時に甲府の信玄側から安芸の毛利元就側へのお礼の使者を務めたのではないかな?と想像したりもしてみました。
更に後年の天正四年、勝頼の代になってから、勝頼が毛利輝元との間に同盟を結ぶための使者として、この八重森家昌を派遣していますが、武田氏と遠い西国の大名である毛利氏との接点は、この頃くらいから生まれていた可能性があるのでは?