宮内庁書陵部所蔵の陰陽道土御門家の史料「土御門文書」の、「日時勘文留」という記録がある。

これは土御門久脩以下歴代が陰陽師として求められた日時等勘申のメモであり、その中の久修の代の、天正十一年分の紙背にある文書が見える。

この文書の書状によると、実際のこの書状の日付は、閏十月という日付、明智十兵衛光秀が坂本城の普請に奔走している事から、実際には元亀三年(一五七二)に書かれたものと推定される。

その内容は「信長御若子」つまり信忠と「甲州信玄御息女」つまり松姫の婚儀について、霜台織田信長の仰せを受けて土御門某に「調進」を命令したものである。

この調進の内容は、判然としないが、土御門家の職掌を考えると、やはり、二人の婚姻に関係する日時・場所等の勘申の依頼と考えられる。

この時の久修はまだ幼年であったため、おそらく宛先は父の陰陽頭土御門有脩と考えられる。

この有脩は元亀元年(一五七〇)の摂津攻めにも参加しており、このように、武家との関係も窺える。

 

 そしてこの差出人の栖雲斎歳阿は、本書状の他賀茂別雷神社領や足利義輝・義昭生母追善のための慶寿院領の安堵状で奏者を務めている事が確認できる。

また、更に彼と同一人物と推定される、元亀二年(一五七

の足利義輝七回忌の参列者中に「御同朋歳阿弥」、そして更に上野秀政・三淵藤英らと共に、信長と義昭の間の連絡を取り持っていた人物として、「才阿」という名前が、確認できる。

おそらく、この「歳阿」というのは、彼ら同様に足利義輝・義昭に仕え、やがて信長との関係も深めた人物だと考えられる。信長から光秀に命令があり、光秀が取込中のため歳阿から依頼するという流れから、光秀が婚儀の担当者であったと考えられる。

 

 そして、これまで、織田信長の嫡男信忠と武田信玄の娘松姫の縁談発生時期については、本格的な彼らの縁談が具体化した時期としては、「甲陽軍鑑」や信長側の史料「総見記」などによると、信玄の四男武田勝頼の正室で、信長養女の遠山夫人が永禄十年に死去した後、信長の申し入れにより婚約が整った。

しかし、双方とも幼少のために結婚は延期されていたとされている。しかし、現在この事が確認できる一次史料は、知られていない。

そして、実際に勝頼の前妻遠山夫人が死去したのは、元亀二年の九月である。この事は、高野山成慶院の記録から、確認できる。

 

 

 

記の、「土御門文書」中の「日時勘文留」以外の当時の史料で、この時期の信長と信玄間の婚姻が類推される史料としては、元亀元年の十月に徳川家康が、上杉輝虎(謙信)に送った誓書があるそうです。

この中の後条に「甲尾縁談之儀も事切候様二可令諷諌候事」とあるそうです。交渉に当たった直接的な人物は不明ではあるものの、この時期までには信長と信玄の間で何らかの縁談が持ち上がり、かつ家康がその縁談を疎ましく思っている様子が窺えるという、そしてこの史料を引用している、遠藤珠紀氏の、更に興味深い指摘もされています。

 

確かに、秘かにこの時期前後から、天下の覇権を握る事を強く意識していたと思われる徳川家康からしたら、当時の二大勢力である、信長と信玄が手を組む事は、由々しき事態であり、大いに警戒すべき事であったと考えられ、彼がこの両者の縁談を、不快に思う十分な根拠は、あると思われます。「事切候様に、可令諷諌候事」とは、「ぜひこの縁談は破談にし、二人の同盟を成立させないように、信長をお諌めしなければならない」というような意味なのでしょうか? 

 

そしてこの後、信玄と信長の間で、この婚姻が破棄された事は、家康にとっては好都合であったのでしょう。

要するに、本史料からはこの時期、しばらく棚上げされていた、おそらく信玄の娘松姫と信長の息子信忠との婚約を、いよいよ具体化させる意思が、両者の間にあった事がわかると、遠藤珠紀氏は、続いて指摘しています。とにかく、少なくともこの元亀元年には、信玄と信長間で、松姫と信忠との縁談が、具体化していく動きが、あったようだという事ですね。

 

 元亀二年には、武田氏と後北條氏との戦いが終結し、これにより後方の不安が取り除かれ、武田氏の遠江・三河進攻の態勢が整ったと言われている。

そして明けて元亀三年と推測される正月末に信玄は、信長祐筆の武井夕庵宛に書状を出している。

そこでは後北条氏との和睦、家康からの讒言があろうとも信長に対して意の無い事を主張し、取り成しを願っている。また上杉氏との和睦の意思がない事も、述べられている。

遠藤珠紀氏は、この「織田信長子息と武田信玄息女の婚姻」の中で、松姫と信忠の婚儀の具体化も、このような関東の情勢変化の中で、改めて両者が友好関係を確認しようとする、動きの一端であろうとしている。

それにしても、有力戦国大名同士の子女の結婚となると、上記の家康の警戒など、多くの人々の、様々な思惑がいりみだれるものなんですね。

「戦国史研究 第62号 「羅針盤」織田信長子息と武田信玄息女の婚姻 

遠藤珠紀 吉川弘文館」