「嫉妬深く高慢な悪妻」というのが、まるで彼女について語られる時の、お決まりの形容詞のようになってしまっています。

しかし、彼女がこのような女性であったと 記している、同時代・近世の文献は一切存在していません。また「甲府での暮らしを嫌がり、不平不満ばかり言っていた」という、これまたお馴染みの話も同様です。

三条夫人に関しては、それこそ文献に基づかない信用できない話が、山のように創られています。

そしてその主な発生源は、小説・ドラマなどの創作物です。

 

また代表的な俗説として、三条夫人が武田勝頼の母で信玄の側室の諏訪御料人に対して、嫉妬から辛く当たったというものがあります。

しかし、既にこの頃三条夫人は信玄と結婚してから、十年が経っており、既に嫡男の義信も誕生し、正室として安泰だったという所ではないでしょうか?実家を失い、確かな後見の存在も定かでない女性である諏訪御料人か、新たに信玄の側室になったからと言って、それ程彼女に対して激しい敵意や嫉妬心を抱く必然性があるのでしょうか?

それに公家も一夫多妻制であり、三条夫人が側室の存在自体に、それ程拒否反応を示したとは考え難いです。

 

また、いつも違和感を覚えてならないのは、とかく小説やドラマなどのフィクションでは信玄の妻達の中では、諏訪御料人が信玄の妻達の中で、圧倒的な優位的立場にあったように描かれますが、この根拠にも疑問を感じます。 これはおそらく、彼女の息子勝頼が信玄の跡を継いでいるという事から、出てきた見方でしょうが、(基本的に、諏訪御料人と勝頼に対する、贔屓の引き倒し的解釈の小説やドラマばかりという事も大きいのでしょうが)。 客観的に当時の諏訪御料人の立場を見てみれば、彼女の身分は側室で、息子の勝頼の武田家相続も、まだ決定的になっていません。

 

例えばドラマ「風林火山」などのように、十数年後に諏訪御料人がまるで自分の息子が将来的に武田家を継ぐ事になるのを、あたかも確信でもしていたかのような解釈には?です。なぜ、正室ではない、側室の中の一人の女性が、そのような確信など持てるのでしょうか?

私はこれは、とにかく当主の母が偉いのだという、後から出てきた、江戸時代的な価値観に囚われ過ぎた見方のように、思います。

当時のように、病気や戦争などで子供の死亡率が高かった時代、更に武将の家では一人でも多くの子供を妻達が産んでくれることを望んでいた事でしょう。家門の繁栄にも繫がり、男子なら直接的な戦力に、女子なら政略結婚の手駒として使う事ができるからです。

その具体例としては、かつて勢力を誇っていた豊臣家が早目に滅亡したのも、そして徳川家が天下を取り、徳川幕府の長い繁栄を誇れたのも、秀吉と家康の、それぞれの実子の数も関係していた事は、明らかです。

 

しかし、諏訪御料人が生涯で生んだ子は信玄には四男に当たる、勝頼だけであり、 また淀殿のように、正室には子供がいない状態で、初めて男児を生んだ側室という訳でもありません。更に信玄には三条夫人と同じく、五人の子供を生んでいる、油川夫人という側室もいたからです。

彼女の生んだ息子達の仁科盛信や葛山信貞は、それぞれ武田の 統治する地の養子になっており、また菊姫は上杉家に嫁ぎ、 このように油川夫人は、武田家の家門の繁栄に大きく貢献していたはずです。

そのような側室もいるのに、まるで諏訪御料人が信玄の妻達の中で、圧倒的優位にあった妻とするのは、非常に疑問を感じます。

 

また正室の三条夫人も多くの子供を生んでいる事実も、無視できないでしょう。本当に愛した女性の方が大切だから、子供の数など関係ないというのは、 極めて情緒的かつ現代的な見方で、当時の武家社会に当てはめる事はできないように思います。生んだ子供の数も、明らかに信玄の中では、妻達の存在の重要性と関係していたと思います。

信玄は上記の息子達の他にも、 三条夫人との息子武田信親にも、信濃国豪族の、海野家を継がせており、 征服地の統治手段として、基本的に行なっていた手段だという事がわかります。とにかく、側室の身分である諏訪御料人が、正室の役目の代わりなどできなかった事は確かでしょう。

 

諏訪御料人の、とりあえず明らかに推測できる役割は、信玄が諏訪を統治するために必要だった、シンボルとしての諏訪氏出身の側室というものであり、彼女の信玄の側室としての役割は、こちらの方面に限定されていたと考えた方が妥当だと思います。しかし、その他に彼女が果たした側室としての具体的な役割はというと、不明としか言いようがありません。

当主武田勝頼の母親だから無条件に偉いのだと主張する人々もいるかもしれませんが、私はとても勝頼が生まれた時点もしくは彼の幼年期から、すでに彼の武田家相続が確定的なものだったのだとは思えません。

 

私がかなり疑問を感じている点です。

また、結局このような見方は、三条夫人が正室としての具体的な役割を果たしておらず、信玄との夫婦仲も不仲だったという推測を前提としており、それが事実ではなかったとすれば、はなはだこの推測も、油川夫人の事と合わせて考えると、信憑性が不確かなものになってくる訳です。

それにしても、やはり最初から無理な部分がある仮説だと思いますが。

そしてこの諏訪御料人に関しては、ほとんど詳細がわからず、かろうじて没年が判明しているくらいです。また諏訪御料人といえば、小説などではよく山本勘助が彼女の後見役だった設定になっていますが、彼自身、諏訪御料人同様、不確かな部分が多い人物ですし、信玄に仕える前に諏訪頼重に仕えていたのかさえ、はっきりとしていません。

 

軍師が姫の後見になどなったりするものでしょうか?

それに勘助程の軍師となれば、多忙を極めていたであろう事が予想されますし。また仮に諏訪頼重に仕えた事があったとしても、小説やドラマなどのように、強く諏訪総領家の再興を期し、諏訪御料人と親密という程の関係だったのかは疑問です。 「甲陽軍鑑」から思いついた、井上靖個人の、小説を面白おかしくするための脚色でしょう。 

諏訪御料人に後見役がいたとしたら、私はそれは諏訪総領家に関係する人物の可能性の方が高いと思われます。

 

それから、勝頼が幼い頃、いかにも三条夫人から母子揃って迫害されていたかのように、好まれて書かれますが、勝頼も諏訪御料人同様に、十七歳で高遠城主になるまでの暮らし振りは、はっきりとしていません。

ひどいものになると、三条夫人のいじめにより、諏訪御料人が早死したかのように書いている小説・一般書などもありますが、彼女が死去したのは、弘治元年の十一月六日という冬の最中であり、病死と考えた方が妥当でしょう。 客観的で公平な視点を欠いた、情緒的かつ主観的な見方だと思います。 やはり、三条夫人に関する様々な憶測は、初めに悪妻説ありきで作られているようです。

三条夫人 に関しては、なぜか菩提寺の円光院に伝わる葬儀文書などの、同時代の文献が全く無視された上で、語られる傾向があります。

 

そして三条夫人は、いつまで経っても息子義信の謀反という一点のみで評価され、またその人物像まで、これによりほぼ決定付けられてしまっています。 そしてそれは、諏訪御料人も同様でしょう。

私が他の戦国女性達にも増して、何かと史実と小説が混同されがちな傾向を危惧している、武田家の女性達、特に三条夫人と諏訪御料人に関して、何年にも渡り、数多く流布されてきた以下の言説。

つまり、信玄と三条夫人の不仲及び、信玄が愛したのは正室の三条夫人よりも、側室で勝頼の母の諏訪御料人であり、その為勝頼が武田家当主となった。 そしてまた三条夫人が悪妻だったから、義信が謀反を起こしたというものですが。しかし、これらのいずれも、ほとんど同時代の一次史料や具体的な史実の裏付けに基づかず、漠然として具体性がない根拠であるのが、彼女達を巡るこれまでの意見の、大きな特徴・問題点であり、やはり、いまだに曖昧な憶測・印象論ばかりのままで留まっている印象が、拭えません。私はいつまでもこのような言説が、まことしやかに主張され続けている事には、疑問と不満を感じざるを得ません。

 

 

やはり、どうも見ていると、武田家の女性達の中ではフィクションの世界や一般的な傾向に限らず、研究者達の間でも、基本的に、ひたすら武田勝頼の母である諏訪御料人ばかりが注目される傾向のようで。

他には辛うじて武田信玄母の大井夫人、そしておそらくこれは三国同盟との絡みで、三条夫人の長女の黄梅院などが多少注目される程度でしょうか?このように、彼女達を含めた、武田家の女性達に関する研究が、他の著名な戦国女性達の研究と比べて、いつまで経っても、大きく遅れている・実証的な研究成果に乏しいままに留まっていると判断せざるを得ません。 長年の間、わずかに上野晴朗氏くらいが手を付けたくらいで、一向に彼女達に関する本格的・実証的な研究が、現在に至るまで深まらない事に、苛立ちや残念なものを感じます。

 

 

これまでの間、研究者によってではなく、専ら歴史作家達の手による一般書の中での記述が目立ち、また私が参考書籍の一つとして挙げている、「戦国の女性たち 河出書房新社」の中でも、一人も武田家の女性達が取り上げられていなかった事も、象徴的でした。 黄梅院だけは取り上げられてはいますが、後北条氏の研究者が執筆しており、武田家の女性達としてというより、後北条氏の女性という扱いでしたし。

いいかげんに、武田家の女性達に関しては、上記のような感じの小説的な見方からの脱却が進んでいく事を、切に願います。

上記のように、実際には諏訪御料人は、ほとんど史実がわからない女性ですが、三条夫人とは対照的に、聡明な女性として描かれる事が多いです。 総合的な視点が欠落しており、とても一方的で不公平だと思います。

 

しかし、これまでいかにも事実であるかのように言われてきた、三条夫人の「名門の家柄を鼻にかける、高慢で嫉妬深い正室」という人物像は、妙に具体的かつ固定的で、私は逆に何か引っかかりを覚えます。

逆にこうしたことから、何か既にこうした三条夫人のフィクション中での人物像の先行モデルになった女性でも、別に存在しているのではないか?と思わせてしまう所があります。おそらく、このような三条夫人の人物像は、同じく悪妻として名高い、徳川家康の正室築山殿の一般的な人物像から生まれたものではないでしょうか?  実際に築山殿と三条夫人は、共に夫が有名な戦国大名、共に名門の出自の正室で夫より身分が上、共に正室でありながら嫡男が家督を継承できず、当主の母になる事ができなかったと、共通する点が多いです。

 

また、各メディアでの二人の描かれ方もよく似ています。 ヒステリック、わがまま、夫を尻に敷く、高慢で嫉妬深いなど。 三条夫人は、築山殿と同一視されるようになっていったのでしょう。 現代だって、お嬢様と言っても、性格もそれぞれですし、性格のいいお嬢様だって、いっぱいいるでしょう。

しかし、三条夫人の場合は、ことごとく、その良い出自が、だから鷹揚だとかいい方には、けして想像されず、そういう名門出身の公家の姫だから、家柄を鼻にかけてばかりいて、高慢だというようにばかり、否定的な方にばかり想像されるのは、やはり、その根底に、正室である彼女の息子で嫡男の義信が謀反を起こし、側室の息子が跡を継いだという点ばかり、注目されがちな傾向があること。 そしてそのことが更に、上記のように似たような境遇の築山殿と重ねられて、三条夫人の人柄について、このように一方的かつ否定的な想像ばかりがされやすいのでしょう。

 

そしてそれは、彼女と同じ名門の公家出身で、やはり武家に嫁いだ、駿河の寿桂尼は、けしてそのようには言われないことからも、明らかです。こういったことから、その三条夫人の出自の良さが、否定的な方向にばかり想像されやすい土壌が、あるのだと思います。 それから三条夫人といえば、姉は管領細川晴元の正室、妹は本願寺の門主顕如の裏方(妻)という縁戚関係は、信玄が中央政界で政治的・軍事行動を起こす上で、大きな助けになったはずです。しかし、これも三条夫人のこうした血縁・婚姻関係が、結果的に信玄の役に立ったと解釈される事が多く、三条夫人の積極的な協力はなかったと捉えられる事が多いようです。それに何と言っても、どうせ公家の姫なんて何もできないお人形、形だけの正室に決まっている、という逆差別的な見方も根底に大きくあるような気がします。

 

 

しかし、同時代に三条夫人と同じく公家から武家に嫁いでいる、寿桂尼のような傑出した女性もいるのですが。あくまでこの寿桂尼のような女性は、例外中の例外の存在という事なのでしょうか? 私は公家の姫である三条夫人だからこそできた、信玄の正室としての貢献があったはずと考えています。やはり、三条夫人に関しては、当主の生母第一主義のような、江戸時代的観念に基づいての、これまでの人物像の解釈から一度離れ、新たに人物像を再構築する事が必要だと思います。また、私はこれまで、三条夫人の事を、息子義信が謀反を起こしている事が、しばしば三条夫人自身の人物像に関連付けられるようになっていったため、「その人物像を大きく歪められていった正室」として見てきたのですが。

 

しかし、改めて考えてみると、おそらく当時彼女が信玄の正室として様々な貢献をしていたと考えられるのに、いつしか、その正室としての数々の貢献が歴史の中で埋没していき、忘れ去られるようになっていった、「忘れられた正室」と表現した方が、彼女の現在の存在の捉えられ方に、一番合致しているかもしれません。また、この点に、より一層の悲哀を感じてしまいます。それから以前に、某テレビ番組の再現ドラマの中で、三条夫人の嫉妬深さを表わすエピソードとして、有名な信玄が春日源助へ宛てた釈明の手紙なのに、なぜかそれを偶然三条夫人が見つけた事にされていて、それで三条夫人がヒステリックに喚き立てて嫉妬したように描くという、悪質な捏造をしていましたが。しかし、もちろんそんな事が書いてある史料は、ありません。それに、春日源助への信玄の釈明の手紙なのに、まるで信玄の三条夫人への、釈明の手紙であるかのように誤解されかねない見せ方をしていたのも、不快でした。これも、意図的な演出なんでしょうが。

更に、番組内で三条夫人の肖像画として紹介されていた信玄夫妻の肖像画も、陽雲寺の一応三条夫人の肖像画として伝えられているものの、実際には、武田信実の正室の肖像画と思われる物を使用していましたし。

おそらく、こんな三条夫人を馬鹿にする内容の番組で円光院の肖像画を使用したら、円光院のご住職が激怒すると思ったから、これも意図的にこちらの方を使用したのでしょう。全くいいかげんな番組です。