いつも三条夫人について取り上げられる時、これもなぜかいつも全く無視される、彼女の信仰についてです。
三条夫人は仏教と関わりが深い三条家の出身であり、その生涯を通じて、仏への信仰心が深かったようです。また、それを示すものとして、武田家へ輿入れする際に自分の念持仏である、釈迦如来の木彫りの座像を持参していったそうです。
そしてこれから、彼女の宗派について考察してみたいと思います。
三条夫人は快川和尚の追悼の言葉によると「臨済禅の中で燃え尽き」と言われており、最終的な宗派は臨済宗だったようです。
彼女達三条家・分家の三条西家・正親町三条家の墓所は、京都の二尊院にあります。守護本尊は、釈迦如来と阿弥陀如来です。
二尊院の云われは釈迦が現世を、阿弥陀が未来を見守ってくれる事から来たそうです。二尊院は天台宗のお寺であり、当然三条夫人の宗派も、最初は天台宗だったと考えてよいでしょう。
しかし、武田信玄は臨済宗との関わりが深く、信玄が後に京都五山に倣って甲府に開山した甲府五山も、臨済宗でした。
夫人が後に臨済宗の説三和尚に帰依し、彼が住職を務める円光院(当時は成就院)の開基となっている事から考えて、夫人が臨済宗に帰依するようになったのは、夫信玄の影響かと思われます。
やはり仲が良く、信頼し合っている夫婦仲が連想されます。
三条夫人の正室としての役割は、やはり主に仏教方面で発揮されたのではないでしょうか。甲府五山開山に関しても、三条夫人の尽力があったのではと予想されます。信玄が快川ら、いずれも京都から優れた各禅僧達を甲府内の寺に呼び寄せていく過程でも、京都の公卿の姫である三条夫人の協力も、あったのではないでしょうか?
「長禅寺」・「能成寺」・「東光寺」・「円光院」・「法泉寺」の甲府五山開山に関しても、三条夫人の尽力があったのではと予想されます。
また上野晴朗氏も、おそらく信玄は甲府五山を作った時、ここに領国の文京政策の中心センターを置こうとしているのがありありとわかる、そして甲府五山はそのためのものであり、その一つとしてまず小石和からまず成就院(後の円光院)を移転させ、説三に開山させ、その一歩を踏み出したと指摘しています。更に続けて、彼は正室の三条夫人と共に、学問・文化・信仰の道への殿堂を築き、文治政策を推進しようとしていたのだろうとしています。
そして私もこれに、同意したいと思います。
すでに、これまでの武田氏研究でも、京の公家の姫である三条夫人を信玄が正室に迎えた事で、京文化の甲斐国への流入に繋がったと指摘されています。中でもやはり、注目されるのは甲府五山などとして花開いた、仏教文化でしょう。 「戦国大名の日常生活 講談社」によると、笹本正治氏は甲斐文化についての記述で、甲斐文化の特徴として、信玄個人の関係で集まってきた多くの高僧を媒介とした精神的な文化といえると書いています。やはり、私は信玄と三条夫人により、甲府へと多くの高僧が集まる事となり、信玄の正室として三条夫人が甲斐文化に果たした役割として、彼女が精神文化、つまり仏教文化を花開かせる役割の一端を担っていたと考えています。