約二ヵ月後の七月二十八日には、三条夫人の四四二回忌があります。しかし、相変わらず三条夫人を巡る現状には、大きな変化が見られず、虚しいです。
結局、原作が井上靖のあの「風林火山」だし。
私は初めから三条夫人の正室としての積極的・具体的な評価が、数年前のこの大河ドラマ「風林火山」なんかで行なわれるとも、微塵も思っていませんでしたが。そして案の定、この作品では「由布姫」になっている、諏訪御料人の方がより強調された扱い。
しかも「ヒロイン」と銘打たれていましたし。
そしてこれも変わらぬ恒例の描写として、この時三条夫人は正室で既に五人もの子を生んでいる立場なのに、実家を失った側室であり、一人の息子を生んだばかりの諏訪御料人の存在に、絶えず脅威を感じる彼女の姿。そして三条夫人の彼女への嫉妬が強調された、描かれ方でしたし。また彼女達の確執描写も、相変わらずですし。更にこれも全然史実にもなく、なぜか信玄の諏訪侵攻後に、夫の諏訪頼重が切腹し、武田家に戻ってきた義妹の禰々御料人に、どうせあなたも、兄に本当に愛されている訳ではなく、ただの政略の道具に過ぎないとかいうような、辛辣な嫌味まで言われているし。
しかし、これって完全に、ただの八つ当たりだと思うんですが。
信玄の諏訪侵攻に関して、三条夫人は関係ないのに。でも兄の信玄には、とても直接抗議できないから、こうやって代わりに義姉の三条夫人に当たって、いかにも憂さ晴らしをしているような感じで、何かこの禰々御料人って、嫌な感じです。それから、大河ドラマ「風林火山」中で、こうして義妹の禰々御料人にこういう嫌味を言わせることで、間接的にも、やはり三条夫人は夫の信玄に愛されなかった不遇な正室、という事にしているような感じもして、二重に嫌な感じですね。この表現。
それにしても、禰々御料人って、何か史実から受けるイメージからは、義姉に対して、こんな嫌味なんて、とても言えなさそうな感じの女性なのに。
しかし、基本的にこの禰々御料人って、夫の頼重の死の直後くらいしか、いつも登場しない感じですが。
なぜか各歴史小説中などでは、その箇所だけでも、かなり激情的に描かれる傾向のような気が。
その方が何か盛り上がる感じがするから、ということでしょうか?何か大河ドラマとか、各歴史小説では、武田家の女性達って、何か悲劇的な出来事に遭遇した時に、いずれも激情的だったり、狂乱状態で描写される事が多いような。しかし、何でこういう形でばかり、彼女達の苦悩や、悲しみの表現がされやすいのか?
内に籠って苦悩するタイプの女性だって、いるでしょうに。しかし、こうして外に向けて激しく表現するという方が、わかりやすい感じがするからでしょうか?
とにかく、所詮、こんな大河ドラマの内容ですから、多少これまでよりは、三条夫人への世間の関心が高まったかもしれなくても、予想通り、あくまで一過性に過ぎなかった様子。このように、結局はこのドラマ中でも、諏訪御料人の方が、三条夫人より優れた女性かつ信玄に愛されていた女性扱いという、これまでの大河ドラマ基本路線は何ら変わる事なく。
そしてそれに比べて相変らず、これまでよりは多少マシな扱いだっとはいえ、これに対し三条夫人は無力な公家のお姫様然とした扱い。
側室の諏訪御料人に気圧された影の薄い正室という、三条夫人のこれまでの冴えない印象・評価を、むしろより固定化させ、彼女の大幅な再評価を、より困難にさせただけのように思います。
やはり、全体的に見れば、この大河ドラマ「風林火山」は、三条夫人にとってはプラスよりも、マイナスの方が大きかったなという印象です。
それに、それを実証するように、ドラマ放送終了後、三年も過ぎてしまえば、数多い、悲劇的な戦国女性の一人として、またまた、その存在がその他大勢として埋没してしまったようです。
相変わらず、三条夫人に関して、正室としての 積極的・具体的な評価を行なっている、注目すべき書籍が現われる気配も、依然としてありません。
相変わらず、三条夫人を巡る現状に、停滞感が拭えません。
三条夫人に関しての本格的・積極的な関心が高まる、良い起爆剤となる媒体・きっかけにも、一向に恵まれず、悩ましいです。(放送したらそれっきりという、とにかく視聴率が一時的にたくさん稼げればいいという、本質的にその時限り、無責任な性質を孕んでいる、大河ドラマなどのテレビ番組には、そんな役割は、望むべくもないのは、すでに数々のケースからも、実証済みですし。
こちら方面での、勝頼母子偏重傾向も、相変わらずですし。歴史小説への期待も、もうとうに消え失せました。
基本的に、高齢者が多いこの世界、信玄と三条夫人、そして諏訪御料人について、自然といつまでも古臭い解釈が幅を効かせ続けるのも、当然の結果でしょう。(それに、出版社側もなぜか、およそ特にさしたる理由もなく、小説だけでなくて、このような作家達が書く、歴史の一般書の方でも、いつまでもこのような高齢作家達を、優遇する傾向があるようですから。概して、新陳代謝が活発ではない世界のようで。)
また、このような作家側だけではなくて、読者側も、いつまでもそういう解釈しか、求めていないんでしょうし。
また、基本的に武田ファン=勝頼と諏訪御料人好きですから、私が武田家関連のサイトと一切相互リンクをしていないのは、このような背景・事情によります。また、私自身にも、武田ファンだという意識は、ありません。
それに元々武田家の女性達には、印象的なエピソードのある女性達が多く、どうしてもその中では三条夫人は地味な印象になってしまいがちなのか、信玄にまつわる女性達の中では、その存在が埋没してしまいがちで、つくづく、残念です。
すでに私のサイトも、今年で六年半になります。
果たして私のサイト運営が、目に見えた成果を生むようになっていくのか、気が遠くなってきます。
もうそろそろ、書く事も尽きてしまってきて、運営の方にも行き詰まり・手詰まり感が漂い始めています。
それに、武田氏の女性達の研究といえば、もう二十二年も前に刊行された、上野晴朗氏の「信玄の妻 円光院三条夫人 新人物往来社」があるのみですし。
しかもこの一冊も、必ずしも正当に評価されたとはいえない感じのまま、長い間、絶版の憂目にあっていますし。
更に、武田氏の女性達に関する研究成果としては、まとまった、単独の一冊の書籍という形で発表されたのも、たったこれのみであり。
せいぜい、後は武田氏研究者の佐藤八郎氏により、信玄の娘達の黄梅院と信松尼の生涯が簡潔にまとめられた小論文が「武田信玄のすべて 磯貝正義 編 新人物往来社」に、辛うじて収録されているのみ。このように、相変わらず武田氏研究者達の関心は、専ら関連武将や家臣団や統治面にばかり注がれがちのようですし。そして以降も何十年も経っているにも関わらず、依然として新しい研究成果が生まれる様子もなく。(この編纂者の、磯貝正義氏が、すでに故人となられてしまっているくらいですから。
そういえば、もう何十年も昔に発売された、この先生の著書の「図説 武田信玄 河出書房新社」の武田氏の女性達紹介のページの「信玄をめぐる女人たち」内の諏訪御料人についての記述が、何とも印象的でした。「父を謀殺した憎い男の寵愛を受け、その胤を宿したことから戦国武田氏の中で、格好の悲劇の女人として描かれる諏訪御料人は、また勝頼の生母である。」という書かれ方をしていたり。
またあるいは、更にこの磯貝正義氏の、長野県高遠町の、正真正銘の諏訪御料人の当時の墓所の写真についての説明の一行が「愛憎の運命をたどった諏訪姫が眠る」になっていたりとか。
このように、諏訪御料人に関しては、何だかモロに歴史小説そのままのような見方だったのも、印象的でした。
(それに、明らかに、この「また勝頼の生母である」という箇所にも、特別な意味を持たせていますね。)ひきかえ三条夫人の墓所の方の、ただ本当にそのままの説明という感じの、「武田信玄正室三条夫人の墓」という簡潔な紹介の一行に比べると、何やらこちらの方が対象への、思い入れの強さが感じられるような。
そしていまだに、こういった方々の間でも、こういった武田氏の女性達への見方は、それ程大きな変化はないようで。
やはり、学者達といえど、見方が様々な形で、かなり歴史小説の影響を強く受けているのは、否定できないようですね。
それから、別に私は磯貝正義先生を批判する意図で、こういう事を書いているのでは、ありませんよ。
ただ客観的に、私が現在の武田氏の女性達についての見方にも、いまだに大きな影響を及ぼし続けていると思われる、このような武田氏の女性達に関する、この著書の中でのこの磯貝氏の数行の記述からも、すでにいろいろと見て取れた事を、ただ感じたままに述べただけです。
これらの捉えられ方から、武田氏の女性達を巡る現状として、当時と現在も変わらず、武田氏の研究者達といえども、数多くの歴史小説の影響を大いに受けたままらしいという様子が見て取れるという意味から、非常に印象的・象徴的であると思い、今回紹介したまでです。
やはり、これというのも、長年の間、武田氏の女性達に関する、実証的で本格的な研究成果が一向に、生まれてきていない状態の、反映でもある訳で。
そしてこういった様子を見ても、引き続き、武田氏の女性達を巡る研究状況は、残念な状態と言わざるを得ないという事です。
それから、今年に入ってからも、相変わらず武田氏の女性研究は、低調な感じであり、大きな動きが見られない感じですね。やっぱり、もう武田氏研究の範囲内では、武田氏の女性達の研究に関しては、これが限界なんでしょうかね?
どうやら、武田氏研究方面及び戦国時代方面の、学者達では、いつまで経っても、武田信玄の正室の三条夫人に関して、どうも硬直した見方しか、できない人々が多いようですので。
下手をすると三条夫人は築山殿に、諏訪御料人は淀殿に擬せられている形跡にすら、思い至らない人々が多いような気がしますし。実際に、学者周辺でも、作家周辺でも、改めてそういう指摘をする人は、皆無ですね。
唯一、笹本正治氏は、「戦国大名の日常生活」の中で、三条夫人と築山殿との同一視をはっきりと表明していましたが、そもそも、両者についてそういう捉え方をする事自体の、問題点には、気がついておられないような感じですし。
かといって、いわば安土桃山時代の人物である、淀殿周辺においては、これまで部外者といえる存在であった、江戸時代専門の福田千鶴氏を起用して成功したようなケースを、三条夫人に関しても同様に期待しようにも、期待できる人材が学会にも作家の方面にも、依然として見つからないのが厳しいです。
相変わらず、孤立無援です。
かといって、私個人の力では、この通り、たかが知れていますしね。
本当に、相変わらず2012年になっても、三条夫人を巡る状況は、八方塞り状態です。有効な現状打破の手立てが、見つかりません。